2006年12月17日日曜日

待降節第3主日 「分からないままに」




聖書には時々、天使という不思議な存在者が登場します。この天使は人間に似た姿をしているようですが、人間ではないようです。また天使という呼び名が示すように、この不思議な存在者は天の御国にあって、いつも父なる神のすぐそばにいるようです。でも父なる神のそばにいるからといって、御子イエスキリストではありません。まさに不思議な存在です。

2006年12月10日日曜日

待降節第2主日 「みんながヨハネ」





神のお告げ、というと何やら怪しげな祈祷師が分けの分からない呪文を唱えて、これが神のお告げじゃ!、などと言って人々を惑わすのが一般的なあり様のようです。しかし私たちキリスト信仰者には聖書が与えられており、主なる神は聖書を通して語りかけてこられ、聖書を通して御旨を示してくださいます。つまり主なる神のお告げとしての御言葉は、聖書を通して降るのが常です。

2006年12月3日日曜日

待降節第1主日 「平和を実現する人々」





今年もあと一ヶ月を残すだけとなりました。そしてあの二十世紀の後半の時代を生きた私たちとしては、来る二十一世紀は、戦争のない平和な100年であって欲しいと願いました。なぜなら二十世紀は戦争の100年であったといわれているからです。幸いにして、まだ全世界を巻き込むような戦争は起こっていません。でもイラクやアフガニスタンでは、今も戦争が続いています。

2006年11月26日日曜日

聖霊降臨後最終主日 「雪の便りを聞くたびに」





今年の冬は雪が遅く、札幌の初雪は11月11日だったと思います。こんなに遅いのは昭和36年以来44年ぶりだそうです。しかしどんなに初雪が遅くても、毎年11月に入ると北海道のあちこちから、雪の便りが聞かれます。そして雪の便りが聞かれるようになると、私たちキリスト信仰者は勿論のこと、世間一般の人たちもクリスマスの準備を始めます。

2006年11月19日日曜日

聖霊降臨後第24主日 「主のために気前よく」





今日の説教の主題としても取り上げましたが、気前のよい人とは、どんな人でしょう。それは自分のお金などを惜しみなく使って知人・友人に振舞う人のことだと思います。また、これは当たり前のことですが、気前がよいことには一つの条件があります。それは自分の持っている財産を使うことです。サラ金から借金をしたり、会社の金を横領したりして、振舞うのは気前がよいとはいいません。

2006年11月12日日曜日

聖霊降臨後第23主日 「真の交わりの交渉人」





主イエスキリストが処刑されるときに使われた十字架という道具は、現在はキリスト教会の存在とその信仰を表すシンボルマークになっています。しかし主イエスが処刑された時代では、十字架の処刑は最も非人間的で残虐な方法だったそうです。その十字架が、なぜキリスト教会のシンボルマークになったのか。それには様々な歴史的な背景があったと考えられます。

2006年11月5日日曜日

全聖徒の主日 「祈りがなくなれば」




四つの福音書を見ますと、主イエスキリストが行った奇跡について多くのことが記録されています。そして主イエスの奇跡は、沢山の人々を神の救いと恵みに導き、人々の悲しみを喜びに変え、苦しみを安らぎに変えていきました。ところが本日の箇所には、主イエスの奇跡に対する私たちの理解を覆すようなことが書かれています。

2006年10月29日日曜日

宗教改革主日 「心に留めてください」




最近、教育現場の荒廃が大きな社会問題となっています。その中で私たちが心を痛めるのは、いじめによる子供の自殺の問題です。そして滝川市内の小学校で、いじめで六年生の女子児童が自殺をしています。また福岡市内の中学校でも二年生の男子生徒が、いじめを苦に自殺をした事件は、私たちの記憶に新しいところです。

2006年10月22日日曜日

聖霊降臨後第20主日 「信仰の欠け」




巨万の富を持つ者が、最後に手に入れたいと願うのは、神になることだそうです。そして実際に、神のように振舞った者もいます。でもそれは所詮は錯覚で、その人間が死んだらそれは無くなってしまいます。また神になりたいとまでは行かなくても、より良い人間になろうとか、より完璧な生き方をしたいと願う者は、たくさんいます。

2006年10月15日日曜日

聖霊降臨後第19主日 「人の思いを打ち破る」




最近、マスコミで「2007年問題」という言葉が取り上げられることがあります。それは所謂、団塊の世代(おもに昭和22年~24年生まれの人たちの世代を言う)が来年、2007年以降、60歳定年を迎えます。そこには、退職金とか年金・老人福祉など、様々な社会問題が起こると言われています。また、定年を契機に熟年離婚が増えるとも言われています。

2006年10月8日日曜日

聖霊降臨後第18主日 「信じれば仲間」




今日の夕方から明日9日にかけて、伝道フォーラム全国大会が旭川教会で行われます。この集会は、キリスト信仰者を対象にした研修会のようなものです。ですからその集会には「主キリストは私たちの救い主」という一致した信仰を持つ者だけが集まります。また参加者たちは、主に在る兄弟姉妹とか、信仰の兄弟姉妹、などという表現を用いて互いの信仰の一致を理解し合います。

2006年10月1日日曜日

聖霊降臨後第17主日 「十字架への思い」




地図を広げて見ますと、どこにどんな道路や施設や建物があるかなどが、分かり易く書かれています。また、その施設や建物がどんな建物かが分かるように、記号などで表しています。例えば、学校とか市役所・交番・工場などなど。そしてキリスト教会も記号で表されています。でも教会を記号で表すとしたら、どんな記号が良いでしょうか。それは、十字架が最も良いと思います。

2006年9月24日日曜日

聖霊降臨後第16主日 「自分のこととして」




[日曜クリスチャン]という言葉があります。でもあまり良い意味で使われていません。これは、日曜日に礼拝に来たときだけ、自分はキリスト信仰者であることを意識するが、礼拝が終わって教会の玄関を出た途端、それをすっかり忘れ、週日の日常生活のなかでも、自分がキリスト信仰者であることを思い起こすことが殆どない。そんな信仰者を、日曜クリスチャンというのだそうです。

2006年9月17日日曜日

聖霊降臨後第15主日 「開かれていく」




先週の金曜日(15日)に、寿都教会と岩内集会所の礼拝奉仕に行ってきました。そしてこの二つの町に行くために、途中、いくつかの市や町を通過しました。でも、それらの途中の市や町を車で通過しただけです。さて本日の箇所に《それからまた、イエスはティルスの地方を去り、シドンを経てデカポリス地方を通り抜け、ガリラヤ湖へやって来られた。》(31節)と書かれています。

2006年9月10日日曜日

聖霊降臨後第14主日 「悪より救い出すパン」




主の祈りは、主イエスキリストが私たちに教えてくださった祈りです。その祈りのなかで祈られることはすべて、私たちの信仰と日々の信仰生活に欠かすことの出来ない重要な事柄が取り上げられています。これは私たちの祈りの手本であり、模範となるものです。ですから主の祈りで祈られていることは、私たちの日々の生活においても、常に覚えなければならない大切な祈りの事柄です。

2006年9月3日日曜日

聖霊降臨後第13主日 「口を証しの扉として」






先週、山の手教会の礼拝説教を通して、誤信と戦うキリストの姿について学びました。この誤信とは「誤って信じること」という意味です。主イエスは、弟子や群衆、また私たちキリスト信仰者が、より深くより強く主を信じることができるように配慮しつつ、神の福音を語ってくださいます。しかしそれと同時に、誤った信仰に陥らないように教えてくださいます。

2006年8月27日日曜日

聖霊降臨後第12主日 「誤信との戦い」






日本は飽食の国、と言われています。確かに私たちは毎日、三回の食事を充分に満腹するほどに食べることができます。でもこの地球上には、現在でも充分に食べることの出来ない人がたくさんいます。その意味では、主イエスキリストがおられた時代のイスラエルの人々も貧く、充分に食べることが出来ませんでした。ですからこの貧しい人たちが、満腹する程に充分に食べることが出来たとしたら、それらの人たちは、どんな気分でしょうか。おそらく幸せ一杯の気分だろうと思います。

2006年8月20日日曜日

聖霊降臨後第11主日 「価なしに配られる」






先週、牧師たちの集まりである教職者会が行われました。その会合の雑談のとき、夏休みの話題が出ており、それぞれの牧師たちは、それぞれの都合に合わせて休息のときを持ったようです。それは普段の仕事を休んで休暇を取ることですので、一般の会社員と同じです。その一方で、ある若者が「俺は働いてないから、毎日、休みだ」と言っていたのを思い出しました。

2006年8月13日日曜日

聖霊降臨後第10主日 「神と仲間たちが支える」






キリストの福音を宣べ伝えることの難しさは、私たちがいつも経験するところです。でも何故、難しいのでしょうか。どこが難しいのでしょうか。私たちはこのことを何となく分かっているようで、実はよく分かっていないように思います。そしてキリストの福音を伝えるとき、どこが難しいのか。その答えを示したのが、先週の福音書に描かれている、ナザレの村の村人たちでした。

2006年8月6日日曜日

聖霊降臨後第9主日 「より正しく聞くため」





日本のクリスチャン人口は1%以下であり、極めて小さな集団です。しかしこの小さな集団でしかないキリスト教会では、その教会の責任を担う教職者の養成には、大きな力を注いでいます。また教職者の学問的レベルを支える日本のキリスト教神学は、世界のトップレベルにあると言われています。でもその一方で教職者を志願する若者たちが減っています。

2006年7月30日日曜日

聖霊降臨後第8主日 「ただ主を信じて」




最近、テレビで、ある宣伝が目につきます。それは生命保険や入院保険などの宣伝です。また大手保険会社による不適切な保険金の不払いが発覚し、行政官庁から改善命令が出される事件もありました。これは現代の高齢化社会の世相を反映したものと言えます。そして高齢者でなくても、中年になると誰でも自分の身体の健康状態が気になります。

2006年7月23日日曜日

聖霊降臨後第7主日 「私たちの舟も主と共に」




ここ一ヶ月以上も前から、本州や九州を中心に大雨による水害や土砂崩れなどの被害が起きています。そしてこれほど長い間、雨が続くと手の施しようがなく、自然の猛威の前に成す術がありません。また北海道では毎年、冬の寒さや吹雪などの自然の猛威には戦う術もなく、ただ吹雪が過ぎ去るのを待つだけということをいつも経験します。

2006年7月16日日曜日

待降節第6主日 「聞く力を持つ」




今日から日曜学校が夏休みになりました。そして毎年、夏休み前に日曜学校では教会の野菜畑の草取りをします。でも畑はいつも手入れされていますので、子供たちが草取りをするほど草は生い茂っていません。にも関わらず子供たちに草取りをしてもらうのには理由があります。それは、自分たちの植えた花や野菜などが、自分たちが知らないうちに成長するのは、主なる神がそれらの野菜などに命を与えて、成長させるからであることを学んでもらうためです。

2006年7月9日日曜日

聖霊降臨後第5主日 「重荷を軽くするために」




世の中には、有名人とか著名人などと呼ばれる人がいます。またそのように呼ばれることは、当人だけでなく、その人の身内の者や家族にとっても名誉なことでしょう。その意味では主イエスキリストがガリラヤ湖畔で福音の宣教を始めた、その当初から主イエスの評判が広がり、あの時代のイスラエルで主イエスは有名人であったと言えるかも知れません。

2006年7月2日日曜日

聖霊降臨後第4主日 「なえた心を伸ばして」




先週6月25日の主日礼拝で、マルコ2:23~28の箇所を学びました。そしてこの箇所の28節でイエスは《だから、人の子は安息日の主でもある。》と教えられました。この安息日は私たちが主日礼拝を守る日曜日と同じです。つまり主イエスキリストは、安息日である日曜日の主日礼拝の主であるということです。

2006年6月25日日曜日

聖霊降臨後第4主日 「なえた心を伸ばして」




5月と6月に洗礼式が行われました。そして洗礼を行うためには洗礼準備会という勉強会が行われます。その勉強会では、「モーセの十戒」「使徒信条」「主の祈り」「洗礼と聖餐」などについて学びます。これらの事柄は、私たちの信仰理解の中心的な事柄であって、これらの理解が正確になされないと、自分勝手な信仰を作り出してしまう危険があると言っても過言ではありません。

2006年6月18日日曜日

聖霊降臨後第2主日 「今も楽しみの時」




主イエスキリストへの信仰は、私たちの人生観や価値観だけでなく人格や人間性そのものを変えてしまうほどの力を持っています。また信仰は弱いよりも強いほうが好ましいし、曖昧な信仰より固い信仰が良いことは明らかです。でも残念なことに、信仰は目で見たり形にして表すことはできません。ですから自分の信仰を具体的に、他者に見せることが出来ないのです。

2006年6月11日日曜日

三位一体主日 「この風の中に」




今の世の中は、ボーダーレスの時代だそうです。そしてボーダーレスは良いことだとの風潮があります。このボーダーレスというのは、[境目がない]とか[境界線がない]という意味だそうです。しかしボーダーレスがよいかどうかは、時と場合によると思います。例えば、今は24時間営業の店があることは常識になっています。これは確かに便利です。

2006年6月4日日曜日

聖霊降臨祭 「信仰を支える助け主」




先週(5月28日)の説教主題は「主は祈り続ける」でした。そのなかで主イエスは、何を祈り続けているのかについて学びました。また主が祈るきっかけとなったのは、主が弟子たちやキリスト信仰者に語ったキリストの福音を、この世の人々が憎んだことでした。またこの世の人々が主キリストの福音とそれを信じる信仰者たちは、天の御国に属する者となったからだと、主イエスは語っています。

2006年5月28日日曜日

復活後第6主日 「主は祈り続ける」




ヨハネによる福音書は、他の福音書(マタイ・マルコ・ルカ)にはない、様々な特徴があります。その一つにヨハネによる福音書には、[祈る]という言葉がありません。しかしだからと言って、ヨハネは祈りについて全く取り上げていないのか、というとそうではありません。また祈るという言葉を、福音書に書き記すのは相応しくないと考えているのでもありません。

2006年5月21日日曜日

復活後第5主日 「私たちの友となられた」




ここ一ヶ月の間に、私たちの教会では二回の葬儀、洗礼式、結婚式、召天者一周年記念式と、大きな出来事がいくつもありました。そして洗礼式以外の集会では、必ず歌われた一つの讃美歌があります。それは〝教会讃美歌371番ーいつくしみ深き〟です。でもどうして、この讃美歌が歌われるのでしょうか。それはこの歌が、教会に関わりのない一般市民の方々にも広く知られているからです。

2006年5月14日日曜日

復活後第4主日 「枯れてはならない」




北海道の五月は新緑の季節です。また今は桜が満開です。でもなぜ、様々な木や草に綺麗な花が咲き、新しい芽吹きが起こるのでしょうか。それはそれらの花や蕾の枝が幹や根に繋がっているからです。そのように言いますと、そんなことは当たり前だ、何をバカなことを言っているんだ、と思われかも知れません。

2006年5月7日日曜日

復活後第3主日 「私は弱く主は強い」





日曜学校の賛美歌に「主われをあいす」という歌があります。この歌の一番の歌詞は「主われを愛す、主は強ければ、われ弱くとも 恐れはあらじ。わが主イエス、わが主イエス、わが主イエス、われをあいす。」です。ここで作者は、私に信仰的・人間的な弱さがあっても、強き主が私を愛し守ってくださるので、私は何物をも恐れない、と歌います。つまり私は弱いが主は強いというのです。

2006年4月30日日曜日

復活後第2主日 「日々の糧は主からくる」




毎週、熱心に礼拝に集われている教会員の方でも、週日の生活で祈りと御言葉のみの生活をしているという方は少ないと思います。勿論、キリスト信仰を中心に、そこにこの世的な事柄を上手に取り込んでおられると思います。でも信仰生活に、この世的なことを上手に取り込んでいると言えば聞こえはいいのですが、本当に私たちは上手に取り込んでいるのでしょうか。

2006年4月23日日曜日

復活後第1主日 「信じなかった者の信仰」




主キリストの教会には、カトリックやプロテスタント系の教会など多くの教派・教会があり、それぞれの違いや特徴があります。しかし最も中心的な部分は一致しています。例えば、イエスキリストは復活したという信仰においては一致しています。けれども主イエスキリストの復活の信仰は、最初からあったわけではなく、最初から確立し、一致いていたわけではありません。

2006年4月16日日曜日

復活祭 「外から来る幸い」




先日、キリスト教関係の用品や書籍を扱っている書店に立ち寄ることがありました。時節柄、イースターに関する用品がたくさん置かれてあり、幾種類ものカードや葉書もありました。そのカードや葉書には[イースターおめでとう]とか[ハッピーイースター]などと書かれていました。日本語では、めでたいことがあったときには、おめでとう、という一つの言葉しかありませんが、英語には、おめでとうという意味を表す言葉がいくつかあるのだそうです。そのなかで主なものに二つの言葉があります。

2006年4月9日日曜日

受難主日 「わたしかも知れない」




今日の主日は、主イエスキリストの十字架の苦難の出来事を覚える、受難主日です。そしてこの主日に与えられた福音書の御言葉は、マルコ14章1節~15章47節です。この一連の箇所を読みますと、主の十字架の出来事には、実に多くの人々、また多くの種類の人々がかかわっています。例えばイエスに敵対する者、殺そうと企てる者、その企てに乗って騒ぐ者、無関心な者、自分の意思とは関係なく巻き込まれた者、あるいは、主を信じていたが怖くなって逃げた者、イエスを裏切った者など様々です。

2006年4月2日日曜日

四旬節第5主日 「同じ根から出ている」




主イエスキリストを信じる者と信じない者との間には、互いに理解し合えない深い溝のようなものがあると思っている人たちがいるようです。しかもそれは私たちキリスト信仰者ではなく、キリストを信じない一般の人に多く見受けられるようです。つまり一般の人たちをクリスマスなどに教会に誘うと、「教会は敷居が高い」とか「教会は立派な人が行くところだ」などの答えが返ってきます。

2006年3月1日水曜日

四旬節第4主日 「仰ぎ見ることは」




[罪人]という漢字を書いたとき、その読み方には二つあります。それは[ざいにん]と[つみびと]という二つの読み方です。そしてこれは私の個人的な理解かも知れませんが、この[罪人]と書いて[ざいにん]と読むのと[つみびと]と読むのでは、その意味が全く違うと私は考えています。また[ざい人]と呼ばれる者と[つみ人]と呼ばれる者との間には共通性はなく、全く別の人々であると思います。