2006年11月19日日曜日

聖霊降臨後第24主日 「主のために気前よく」





今日の説教の主題としても取り上げましたが、気前のよい人とは、どんな人でしょう。それは自分のお金などを惜しみなく使って知人・友人に振舞う人のことだと思います。また、これは当たり前のことですが、気前がよいことには一つの条件があります。それは自分の持っている財産を使うことです。サラ金から借金をしたり、会社の金を横領したりして、振舞うのは気前がよいとはいいません。

さてそこで、気前よく献金をする、とか、気前よく教会の奉仕をする、という言葉はありませんが、そもそも、本当の気前よさ、とはなんだろうか。そんなことを聖書から学んでみたいと思います。今日の福音書には、エルサレムの神殿に大勢の群衆や金持ちが献金をしている様子が描かれ、また人々が献金をする様子をご覧になっている、主イエスの姿があったことが記録されています。

《イエスは賽銭箱の向かいに座って、群衆がそれに金を入れる様子を見ておられた。大勢の金持ちがたくさん入れていた。》(41節)とあります。そして金持ちたちがたくさんの献金をしていていますので、これこそ気前のよい献金といえます。しかし主イエスは、彼らは有り余るなかから献げていると語っていますので、これは本当の気前よさ、とは言えないようです。

しかしこのような金持ちたちに混じって、一人の貧しい女性が献げました。《 ところが、一人の貧しいやもめが来て、レプトン銅貨二枚、すなわち一クァドランスを入れた。》(42節)とあります。この一レプトンというのは、約120円くらいですので、二レプトンで240円で、これは彼女の今日一日の生活費ですので極貧の生活です。それを全部ささげるのは、やり過ぎだと思います。

賽銭箱というと、私たちは神社の賽銭箱を思い起こします。でもエルサレム神殿の賽銭箱は、神社の賽銭箱とは少し形が違うようです。賽銭箱の上にラッパの形をした投げ入れ口がついています。それは昔の蓄音機と同じように、硬貨を投げ入れると大きな音が出るようになっていたようです。金持ちたちは、大きな音を立てて得意げに金貨などを投げ入れていたようです。

しかもエルサレムの神殿には、この賽銭箱が13台あったそうです。そしてそれぞれの賽銭箱には、献金の目的が書かれたラベルが貼ってあって、献金者はそのラベルを見ながら献金をしたそうです。でもそれは人々にとっては、義務的であったり、自分の出来る範囲で、生活に影響がない程度に献げていました。まさに有り余るなかから献金をしていたのです。

ですから主イエスも言います。《 イエスは、弟子たちを呼び寄せて言われた。「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。 皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。」》(43節~44節)と語ります。

これで金持ちたちが余ったものを献げていたということが分かりました。しかし私たちが気になるのは、あの貧しい女性がどんな気持ちで献げたのかということです。それは彼女の貧しさからしますと、極めて悲惨な思いで献げたと想像されます。つまりこのお金がなくなったら、あとは餓死するしかない。死を覚悟した苦しみと悲しみの献金だったかも知れません。

でも本当にそうでしょうか。もしかしたら全く反対の気持ちだったとも考えられるのです。つまり彼女は、今日は神殿で献金したいと願っていた。そしてレプトン銅貨二枚しかないのではなく、自分の手元には銅貨が二枚もある。この恵みを献げよう。そして今日一日のすべてを神に捧げ、今日一日を神を覚え神のために働く日としたい、という信仰の決断によって捧げたのです。

そこには、私たちが想像するような暗さや苦しさや悲惨さは全くありません。今日一日、主なる神が私を守り、私を生かし、私を養ってくださる、という信仰が彼女にあったのです。それはまさに、主のためにすべてを捧げ、主のために気前よく献げ、主のために気前よく生きる。そんな信仰の思いが彼女にあったのではないかと思うのであります。

主イエスは、持っているものすべて、生活費の全部を入れたとありますが、彼女が献げたのは生活費だけでありません。今日一日という時間も身体も知恵も知識も信仰も、すべてを主に献げたのです。私たちは、主に委ねる、という言葉を使いますが、これは自分のすべての生き様を主に献げる生活を言います。そして、主のために気前よく生きることが、すべてを主に委ねるということではないかと思うのであります。

それは誰かから強制されるものではなく、また不承不承するものではありません。自分自身が祈って決めることです。そしてこのことは使徒パウロも、コリントの信徒への手紙Ⅱ9章6節~7節で次のように語っています。《惜しんでわずかしか種を蒔かない者は、刈り入れもわずかで、惜しまず豊かに蒔く人は、刈り入れも豊かなのです。 各自、不承不承ではなく、強制されてでもなく、こうしようと心に決めたとおりにしなさい。喜んで与える人を神は愛してくださるからです。》

そして使徒パウロがここで語っていることが、貧しい女性の心のうちにありました。つまり彼女は、誰かから強制されて生活費の全部を献げたのではない。また不承不承でもありません。彼女は献げたいとの祈りによって決断したのです。それはまさに、本当の気前よさであり、喜んで与える人を主は愛してくださるとの御言葉どうりに、主はこの女性の信仰と献金を祝福されたのであります。

私たちは、礼拝献金や月定献金・感謝献金・特別献金などを主に献げます。でもそれは有り余るなかから献げているのではありません。しかし使徒パウロが言うように誰かから強制されてでもなく、不承不承でもない。私たち一人ひとりが、こうしようと心に決めたとおりに、献げているのです。

それは、主のために気前のよい、献金であって、喜んで与える人を神は愛してくださる、という使徒パウロの言葉は、私たちの献げる献金においても、現実の事柄となっています。また、主のために気前よく、というのは献金に限ったことではありません。私たちキリスト信仰者が、生き生きと賛美し、祈り、御言葉を聞きつつ、日々を生き抜くことも、主のために気前のよい信仰生活と言えるのです。

私たちは、何事もすべてを主に委ね、自分の人生を大胆に献げて、主に愛される日々を歩みたいと思います。
アーメン





新約聖書 マルコによる福音書 12章41~44節

12:41 イエスは賽銭箱の向かいに座って、群衆がそれに金を入れる様子を見ておられた。大勢の金持ちがたくさん入れていた。12:42 ところが、一人の貧しいやもめが来て、レプトン銅貨二枚、すなわち一クァドランスを入れた。12:43 イエスは、弟子たちを呼び寄せて言われた。「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。12:44 皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。」