2006年12月17日日曜日

待降節第3主日 「分からないままに」




聖書には時々、天使という不思議な存在者が登場します。この天使は人間に似た姿をしているようですが、人間ではないようです。また天使という呼び名が示すように、この不思議な存在者は天の御国にあって、いつも父なる神のすぐそばにいるようです。でも父なる神のそばにいるからといって、御子イエスキリストではありません。まさに不思議な存在です。

そしてこの天の御国の使いである天使は、父なる神の御業や御旨を我々、人間たちに知らせるのが使命のようです。その天使がナザレの村に住むマリヤという女性の前に現れたことが記されています。この天使はマリヤに、あなたは男の子を産むであろう、と言いますが、マリヤはその意味がよく分かりませんでした。そこで天使は《 神にできないことは何一つない。》(37節)と語ります。

さてそこで、神にできないことは何一つない、という言葉が、もし私たちキリスト信仰者に語られたとしたら、私たちはこの御言葉とどのように向かい合うことが出来るでしょうか。この言葉はマリヤがキリストの母となるという神の特別な出来事のなかで語られていますので、もしこの言葉が私たちに語られたなら、神から特別なクリスマスプレゼントでも貰えるのではと思い、楽しみになります。

しかし何でも出来るということは、良い物が貰えることと必ずしも一致しないこともあるように思います。例えばもし仮に私たちが、いま神に背を向けこの世の打算的な悪しきことに手を貸そうとしている、そのとき、神にできないことは何一つない、と言われたら、我々は何を考えるでしょうか。その罪のゆえに、自分に厳しい裁きが下されて完全に滅ぼされると考えるのではないでしょうか。

なぜなら神にはできないことは何一つありません。この小さな罪びとの一人を滅ぼすことは造作もないことです。でも神は私たちを滅ぼすために創造されたのではありません。神にできないことはない、と言われるとき、それは我々を滅ぼすのではなく、罪のままであってもその罪びとを救うために、神の救い主を遣わして愛と恵みによって罪から救うという、我々が想像もしない業ができるのです。

そのために、主なる神は、私たちの命を創造されたのです。その神の新しい救いの業を実現するために選ばれ、用いられたのがキリストの母となったマリアでした。そのことについて天使ガブリエルは《 天使は、彼女のところに来て言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」》(28節)とあります。

そしてここで注目するのは、恵まれた方、という言葉です。けれどもこれはマリアだけに特別に語った言葉と理解できます。つまり神の御子イエスキリストの母になることは、マリヤ以外に誰にもできないことです。だから、彼女だけが特別に恵みをいただいたので、その意味で天使はマリヤに、恵まれた方、と言ったのではないかと思われます。

しかしマリヤほどではないにしても、私たちキリスト信仰者も主なる神から様々なかたちで用いられ、様々な使命を託された者として用いられます。また神は私たちを滅ぼすために選び用いるのではありません。一人のキリスト信仰者として、この世の只中で生きるために選び用いてくださいます。これが天使の言うところの恵まれた方という意味です。

さらに天使は、なぜ恵まれているのかについて次のような言葉を付け加えます。つまり、「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます」と言います。つまり、主なる神があなたと共にいる、だからあなたは恵まれているのだと、天使は説明します。つまりマリヤにも私たちにも、主なる神がいつも一緒にいて、恵みを与え様々な働き人として用いて下さる、それが恵みなのです。

しかもマリヤほどではないにしても、何でもできる神は、私たちを様々な働きに用いて下さる。それが恵みだと天使は言います。しかも私たちは神に選ばれるに相応しい働きの器であるのかと言うと決してそうではありません。でもそれは実は、マリヤも同じなのです。私たちの感覚からすると、マリヤはキリストの母として相応しい特別な才能や力量や人格を持っていると思ってしまいます。

でもそうではないようです。つまりマリヤはキリストの母となることは全く想像もしていませんでした。才能も力量もなかったようです。この働きについて、ある日、突然、知らされたのです。だから《マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。》(29節)。つまり、マリヤはこの天使の言葉の意味を全く、分からないままに、キリストの母となったのです。

まさにマリヤは天使から告げ知らされるまで、自分がキリストの母になることを知らなかったし、なぜ自分がこのような大きな働きを担う働き人として、神から選ばれ用いられることも、全く理解できなかったのです。そしてこれは、神から選ばれ用いられるということは、ある日、突然、何の予告もなしに、またよく、分からないままに、起こることであることを意味しています。

しかも天使は、分からないままに、選ばれ用いられたことについて、その理由を説明はしていますが、マリヤに賛同を求めたり、引き受けるかどうかの意志の確認をしていません。でも主なる神が、ある日、突然、神の働き人として選ばれることはマリヤに限ったことではありません。それは私たちキリスト信仰者も、ある日、突然、分からないままに、召し出されることが起こります。

そして、なぜ自分が選ばれ、その働きに用いられることになったのか、分からないままに、主の働きを担うことになるのです。しかも主なる神は、その働きを担うことについて、私たちの同意を求めることはありません。また私たちに選択の自由を認めることはありません。神は最も相応しいときに、最も相応しい働き人を立てて、用いるのです。

でもマリヤは、よく分からないままに、主に与えられた働きについて非常に良い答えをしました。このマリヤの答えは、分からないままに、神に用いられる私たちキリスト信仰者も、このマリヤと同じ答えを持ちたいと思います。すなわち《マリアは言った。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」》(38節)。

マリヤが言う、はしため、というのは女の奴隷のことですが、そもそも奴隷は主人の所有物であり主人の命令であればどんなことでも従います。また主人の命令に賛同したり、拒否したりすることはありません。それはまさに、分からないままに、命じられるままに主人の働き人となる。それがマリヤの信仰であり、それが私たちキリスト信仰者の姿であります。

マリヤは、分からないままに、キリストの母となり、私たちも、分からないままに、主の働きを担う者とされています。またこれらの罪びとという働き人の救いのために主イエスキリストは、お生まれになりました。そのキリストの誕生を祝う祭りとしてクリスマスが与えられています。この祝いのために、主は私たちのために、様々な働きへと召し出してくださいました。

その働き人として選び用いて下さった主に感謝しつつ、クリスマスへの歩みを進めて行きたいと思います。





新約聖書 ルカによる福音書 1章26~38節

1:26 六か月目に、天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。1:27 ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。そのおとめの名はマリアといった。1:28 天使は、彼女のところに来て言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」1:29 マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。1:30 すると、天使は言った。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。1:31 あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。1:32 その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。1:33 彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」1:34 マリアは天使に言った。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」1:35 天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。1:36 あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。1:37 神にできないことは何一つない。」1:38 マリアは言った。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」そこで、天使は去って行った。