2006年12月10日日曜日

待降節第2主日 「みんながヨハネ」





神のお告げ、というと何やら怪しげな祈祷師が分けの分からない呪文を唱えて、これが神のお告げじゃ!、などと言って人々を惑わすのが一般的なあり様のようです。しかし私たちキリスト信仰者には聖書が与えられており、主なる神は聖書を通して語りかけてこられ、聖書を通して御旨を示してくださいます。つまり主なる神のお告げとしての御言葉は、聖書を通して降るのが常です。
また主なる神は、いつでもどこでもまた誰に対してでも、御言葉を語ってくださいます。その意味では主なる神は人を選ばず時も場所も選ぶことなく、御言葉を語り御旨を示してくださいます。旧約聖書の時代には、預言者によって神の御言葉が取り次がれていました。しかし新約聖書の時代においては聖書がすべての人々に向かって開かれており、人々は自由に神の御言葉を聴くことが出来ます。

そこで主なる神は、キリストの御降誕の出来事を洗礼者ヨハネに語ったことが、本日の箇所に記されています。つまり《神の言葉が荒れ野でザカリアの子ヨハネに降った。》(2節)とあります。この神の言葉が降った、というのが、いわゆる神のお告げ、ということだと思います。しかし洗礼者ヨハネは怪しげな祈祷師でもなく占い師でもはありません。

ただルカ1章41節に《 マリアの挨拶をエリサベトが聞いたとき、その胎内の子がおどった。》とあり、体内の子とは後の洗礼者ヨハネです。そのヨハネに主キリストの宣教の開始を宣言するようにとの、神の言葉が降ったことは納得できるかな、と思います。でも神の言葉がヨハネに降ったとはいえ、日本的感覚での、神のお告げというのとは、大分、様子が違うようです。

なぜならヨハネに降った神の御言葉は、呪術師のような曖昧なものではなく、極めてはっきりとしたメッセージでした。そのメッセージとは《そこで、ヨハネはヨルダン川沿いの地方一帯に行って、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。》(3節)です。つまり救い主を喜びを持って迎える者は、罪の赦しを得るために悔い改めの洗礼を受けよ、ということでした。

でも普通であれば、主イエス様が来られるので拍手をもって迎えましょう、と言ってもよさそうです。しかしヨハネは違います。私たち罪びとが救い主を迎えるためにしなければらないこと、それは拍手でもなく賛美の歌でもありません。そうではなく自分の罪を悔い改める洗礼を受けることです。そして悔い改めの洗礼を受けることとは、クリスチャンすなわちキリスト信仰者になることです。

私たちは先日、求道者や信仰の兄弟姉妹にクリスマスの案内葉書を書きました。それはみんなでクリスマス礼拝に集い、救い主の御降誕を祝いたいと思ったからです。またこの案内葉書では救い主ということが強調されています。しかしイエスキリストを救い主と呼べるのは信仰の兄弟姉妹だけで、求道者は悔い改めの洗礼を受けていませんので、厳密に言うと救い主の御降誕を祝うことはできません。

また案内葉書を差し上げた求道者たちが、まだ救い主を受け入れていないことを私たちは知っています。それにも関わらず、なぜ救い主の御降誕を祝いましょうと言うのでしょうか。それは、私たちキリスト信仰者のなかに、この洗礼者ヨハネと同じ思いがあるからです。つまりこの教会礼拝に来られる方々は、悔い改めの洗礼を受けるために来て欲しいという思っています。

そして教会に集う人々が主イエスキリストを、私の救い主という信仰を告白する群れとなって欲しいと願っています。洗礼者ヨハネは厳しい言葉によって人々に悔い改めを迫り、洗礼を宣べ伝えました。私たちはヨハネほど厳しい言葉で洗礼を迫ることはありませんが、一人でも多くの罪びとが悔い改めの洗礼を受けて欲しいと願っています。

その願いへの熱い思いは、洗礼者ヨハネに決して劣るものではないと思っています。つまり私たちキリスト信仰者、みんながヨハネ、と同じ思いによってクリスマスを迎え、案内葉書を書き、様々な準備をしてきました。またヨハネが預言者イザヤに書かれてあるように宣べ伝えたように、私たちも、ヨハネと同じことを求道者を始め、すべての人々に宣べ伝えて行きたいと祈り願っています。

その意味においても私たちは、みんながヨハネ、であり、みんながヨハネ、と同じ宣教の熱意を持っています。そして洗礼者ヨハネが、4節~6節で語っていることは、私たちの宣教の思いであり、私たち自身、かってはこの御言葉によって悔い改めの洗礼に導かれました。そして私たち罪びとたちが、クリスマスを迎えるにあたって最も大切なことは何かを学んできたのであります。

つまりヨハネは次のように言います。《これは、預言者イザヤの書に書いてあるとおりである。「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、/その道筋をまっすぐにせよ。谷はすべて埋められ、/山と丘はみな低くされる。曲がった道はまっすぐに、/でこぼこの道は平らになり、人は皆、神の救いを仰ぎ見る。』」》(4節~6節)。

ここでヨハネが語っていることは、我々、人間と人間社会の状態を示していると考えられます。ヨハネは荒れ野で叫んだ、とありますが、私たちは心が荒廃した荒れ野のような日本の社会の只中で、悔い改めの洗礼を宣べ伝えています。またすべての者たちは、クリスマスに向けて心も身体も日々の生活真っ直ぐにしなければなりません。しかし実際は、そうなっていないとヨハネは言います。

またヨハネが言う、谷とは、劣等感や他者に対する憎しみや妬みを意味し、山と丘とは、優越感や他者に対する侮蔑や差別を意味していると思います。そのような谷の思い、山と丘の思いを平らにしてクリスマスに備えなければなりません。また曲がった道とは、私たちが主キリストに向かうのを妨げる状況であり、デコボコの道というのは、私たちが神に背を向ける罪の思いです。
それらの様々な悪しき束縛から離れよ、とヨハネは言います。でもこれらの束縛から離れることが出来きず、いまだにその罪の中に引きずり込まれています。だからこそ悔い改めの洗礼を受けよと洗礼者ヨハネは言います。なぜなら私たちは自分の努力で罪から離れることは出来ないからです。しかし罪びとを、その罪のままで救い上げて下さる方がおられます。それが神の救い主イエスキリストです。

私たちキリスト信仰者にとって、なぜクリスマスが楽しく喜びに満ちているのか。それは私たち罪びとたちが、罪びとのままで愛され受け入れられ、神の御国に救い上げられる。その神の愛と救いを携えて私たちの罪の世界に、神の救い主イエスキリストが来られる。だからクリスマスは楽しく喜びに満たされるのです。

この信仰の喜びを洗礼者ヨハネは人々に伝えました。そして私たちもヨハネと同じ思いをもって、そして、みんながヨハネ、と同じ信仰によって人々に語り伝え、みんながヨハネ、と同じ信仰によってクリスマスを迎えたいと思います。ですから今年は、みんながヨハネのクリスマス。そんなクリスマスを迎えたいと思います。

アーメン





新約聖書 ルカによる福音書 3章1~6節

3:1 皇帝ティベリウスの治世の第十五年、ポンティオ・ピラトがユダヤの総督、ヘロデがガリラヤの領主、その兄弟フィリポがイトラヤとトラコン地方の領主、リサニアがアビレネの領主、3:2 アンナスとカイアファとが大祭司であったとき、神の言葉が荒れ野でザカリアの子ヨハネに降った。3:3 そこで、ヨハネはヨルダン川沿いの地方一帯に行って、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。3:4 これは、預言者イザヤの書に書いてあるとおりである。「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、/その道筋をまっすぐにせよ。3:5 谷はすべて埋められ、/山と丘はみな低くされる。曲がった道はまっすぐに、/でこぼこの道は平らになり、3:6 人は皆、神の救いを仰ぎ見る。』」