2006年12月3日日曜日

待降節第1主日 「平和を実現する人々」





今年もあと一ヶ月を残すだけとなりました。そしてあの二十世紀の後半の時代を生きた私たちとしては、来る二十一世紀は、戦争のない平和な100年であって欲しいと願いました。なぜなら二十世紀は戦争の100年であったといわれているからです。幸いにして、まだ全世界を巻き込むような戦争は起こっていません。でもイラクやアフガニスタンでは、今も戦争が続いています。

しかしそのような時代だからこそ、私たちキリスト信仰者はこの世に平和が実現することを強く祈り願わなければなりません。なぜなら真の平和を実現するのは私たちキリスト信仰者の使命の一つであると考えるからです。そのことについて、マタイによる福音書5章9節に《平和を実現する人々は、幸いである、/その人たちは神の子と呼ばれる。》と語られています。

この平和を実現する神の子たちとは、私たちキリスト信仰者です。ですから私たちはそれぞれの立場から、この世のすべての人々が、平和のうちに生きることに向けて、祈り、考え、発言し、行動するのがキリスト信仰者であります。またなぜ私たちが平和を求め実現する者たちなのか。それは主キリスト御自身が、この地上に平和を実現するために、父なる神から遣わされた方だからです。

そして救い主イエスが私たち罪びとたちにもたらした神の救いとは、地上に住むすべての人々に平和という名の救いを与えるために、主は来られたのです。そのことについてルカによる福音書2章14節に《 「いと高きところには栄光、神にあれ、/地には平和、御心に適う人にあれ。」》とあります。でもこれは単に地に平和があるといいですね、という意味ではありません。

そうではなく、あなた方、地上に住む者たちのところに真の平和である方が来られると言い、さらに主イエスキリストのおられるところには、神の真の平和もまたあるのだと天使は言います。つまり主キリストが平和そのものです。また人間はその罪のゆえに、自分たちで平和を作ったり平和な社会を実現することは出来ません。それは主イエスによるキリストの福音によって実現するのであります。

ですからあのマタイ5章9節で、平和を実現する人々とは、真の平和をもたらす主イエスキリストに信仰によって従い、主から手渡された神の平和を信仰によって保つ人々のことを、平和を実現する人々、というのです。また主の平和について《 イエスがオリーブ山の下り坂にさしかかられたとき、弟子の群れはこぞって、自分の見たあらゆる奇跡のことで喜び、声高らかに神を賛美し始めた。「主の名によって来られる方、王に、/祝福があるように。天には平和、/いと高きところには栄光。」》(37節~38節)とあります。

これは弟子の群れが、神の救い主が天の御国から来られたことを喜び、天の御国に平和があるように賛美しました。しかしこの[天には平和]というのは、彼らが考えていたのと、もっと違った意味があるように思います。それは主イエスはこのあと十字架の道を歩まれ、そして復活の主として天に昇られました。ということは、神の真の平和もまた復活の主とともに、天の御国に去ったことになります。

しかしだからと言って、この地上から神の平和が去ったわけではありません。それは神の子と呼ばれる平和を実現する人々としての私たちキリスト信仰者が信じるキリストの福音よって、神の平和はこの地上に保たれ続けているのです。しかも先週の箇所にもありましたように、天に昇られた主イエスキリストは、世の終わりのときに、再び、栄光の主として地上に来られます。

また栄光の主と一緒に来る天使たちは、今一度、「いと高きところには栄光、神にあれ、/地には平和、御心に適う人にあれ。」と主を賛美するでありましょう。またこの天使たちは地の果てから天の果てまで、主に選ばれた人々を呼び集めると、先週の箇所にありました。でも呼び集めて何を語るのでしょうか。また選ばれて呼び集められた私たちは、栄光の主から何を聞くのでしょうか。

それは永遠の命が実現することと、そして御心に適うキリスト信仰者に真の平和が永遠に実現することが語り聞かされるでありましょう。また世の終わりのときに呼び集められる人々の信仰によって、真の平和の灯し火は二十一世紀のこの時代にも消えることなく、保たれていくのであります。

さらに信仰によって主の平和を実現する名もなきキリスト信仰者があったことが本日の福音書は語ります。《 そして、「オリーブ畑」と呼ばれる山のふもとにあるベトファゲとベタニアに近づいたとき、二人の弟子を使いに出そうとして、言われた。「向こうの村へ行きなさい。そこに入ると、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、引いて来なさい。もし、だれかが、『なぜほどくのか』と尋ねたら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。」(29節~31節)とあります。

つまり平和の君がエルサレムに入られたとき、喜んだのは弟子の群れだけではありません。彼らのような歓喜の声はあげませんでしたが、彼らに負けないくらい熱心に、平和を実現する人々でした。しかもそのような人は一人だけではありません。当時、ロバは高価な家畜で数人が共同で所有していたこともあります。33節に[持ち主たち]と複数で書かれているのはそのためです。

しかもキリストの弟子たちが、主がお入り用なのですと言うと、その高価なロバを黙って貸してくれた名もなき信仰者です。彼らは主の御用のために、一年以上も飼育し続けました。それはまさに、主がエルサレムの街で平和の凱旋をするためにに大切に飼育されていたのです。しかも神の真の平和である主キリストは、誰かと戦って平和をもたらしたのではなく、主の存在そのものが平和なのです。

この平和の主に従い、主の平和の業に参加したいとの信仰によって祈り願う名もなき信仰者によって、主キリストの平和の凱旋が実現したのです。声高らかに主を賛美した弟子の群れも、主の平和を実現する人々ですが、その一方で高価なロバを主に用いられるために飼育する信仰者も、主の平和を実現する人々です。そしてこれらの人たちは、すべて御心に適う神の子なのです。

そして二十一世紀におけるキリストの平和の凱旋は、クリスマスという出来事によって、この世にもたらされます。そのとき、声高らかに賛美しつつクリスマスを迎えるか、静かな祈りのうちにクリスマスを迎えるか、それは私たちの自由です。そして今年一年を振り返るとき、私たちキリスト信仰者は、この世に平和を実現する人々の群れとなることが、この世から求められていることを覚えたいと思います。

アーメン





新約聖書 ルカによる福音書 19章28~40節

19:28 イエスはこのように話してから、先に立って進み、エルサレムに上って行かれた。19:29 そして、「オリーブ畑」と呼ばれる山のふもとにあるベトファゲとベタニアに近づいたとき、二人の弟子を使いに出そうとして、19:30 言われた。「向こうの村へ行きなさい。そこに入ると、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、引いて来なさい。19:31 もし、だれかが、『なぜほどくのか』と尋ねたら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。」19:32 使いに出された者たちが出かけて行くと、言われたとおりであった。19:33 ろばの子をほどいていると、その持ち主たちが、「なぜ、子ろばをほどくのか」と言った。19:34 二人は、「主がお入り用なのです」と言った。19:35 そして、子ろばをイエスのところに引いて来て、その上に自分の服をかけ、イエスをお乗せした。19:36 イエスが進んで行かれると、人々は自分の服を道に敷いた。19:37 イエスがオリーブ山の下り坂にさしかかられたとき、弟子の群れはこぞって、自分の見たあらゆる奇跡のことで喜び、声高らかに神を賛美し始めた。19:38 「主の名によって来られる方、王に、/祝福があるように。天には平和、/いと高きところには栄光。」19:39 すると、ファリサイ派のある人々が、群衆の中からイエスに向かって、「先生、お弟子たちを叱ってください」と言った。19:40 イエスはお答えになった。「言っておくが、もしこの人たちが黙れば、石が叫びだす。」