2006年5月7日日曜日

復活後第3主日 「私は弱く主は強い」





日曜学校の賛美歌に「主われをあいす」という歌があります。この歌の一番の歌詞は「主われを愛す、主は強ければ、われ弱くとも 恐れはあらじ。わが主イエス、わが主イエス、わが主イエス、われをあいす。」です。ここで作者は、私に信仰的・人間的な弱さがあっても、強き主が私を愛し守ってくださるので、私は何物をも恐れない、と歌います。つまり私は弱いが主は強いというのです。

さてこの作者が歌うように、私は弱い、ということと真正面から向かい合うことになった、一人のキリストの弟子がいたことを本日の御言葉は語り伝えています。それは使徒ペトロです。そしてそれは、主イエスの次の問いかけによって始まります。《 食事が終わると、イエスはシモン・ペトロに、「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」と言われた。》(15節)。

しかも主イエスは、三回も同じ質問をしています。なぜ主イエスが「私を愛しているか」と同じことを三回も聞いたのか、その理由はよく分かりません。ただペトロはかって主イエスが十字架に架けられるとき、彼は三回も「私はあの人を知らない」と言っています。そのイエスを拒否したことに対応して、主イエスは彼に三回、私を愛するか、と聞いたのではないかとの理解があるそうです。

ただ、ペトロが主イエスを三回も拒否したことによって、彼の信仰がかなり弱っていたと考えられます。つまりあの子供賛美歌のように、われ弱くとも 恐れはあらじ、という信仰とは、大分、違うようです。ペトロは信仰が弱くなっていたので、この世を恐れ、この世からの迫害を恐れていました。

そしてこのペトロの信仰の弱さ、人間的な弱さを攻めることは簡単です。しかし自分自身の信仰の姿を、改めて振り返って見ますと、ペトロにある弱さと、同じ弱さを自分のうちに持っていることに気付かされます。ですから、あなたはあなたの信仰の兄弟姉妹の誰よりも、私を愛するかと、主イエスから聞かれたら、私たちはなんと答えることが出来るでしょうか。

そこで、ペトロは何と答えたかを見てみたいと思います。《ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言う》(15節)と答えています。そしてこの答えは、謙遜でとても良い答えのように思われます。でも、どうもそうではないようです。

なぜなら、もし彼のなかで強い信仰があったら、こんなに歯切れの悪いものではなく、「はい」の一言でよいはずです。しかし彼の答えは曖昧です。それは彼の信仰が弱くなっていることを意味します。自分のなかに主イエスを愛する強い信仰があるかどうか分かるのは、主イエスではなくペトロ自身です。つまり彼のなかに、三回もイエスを知らないと言う、人間的・信仰的弱さが残っていたのです。

ですから、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです、と答えているのは、信仰的にも人間的的にも、私は弱い、と言っていることなのです。でもペトロは主イエスに、私は弱いのですと答えたとき、私たちを導き、私たちの罪を贖うために十字架に架かられた、強い主がいることに気付かされた、瞬間でもありました。

そして、私は弱く主は強い、という信仰の気付き与えられたとき、その強き主によって私は何物をも恐れないという信仰に立つことが出来るのです。それは、「主は強ければ、われ弱くとも 恐れはあらじ」と高らかに歌える信仰者となるを意味します。この歌は、アンナ・バルレット・ウォーナーさんという人が、1859年に作ったものだそうです。

でもウォーナーさんも最初から、私は弱く主は強い、という信仰があったわけではないと思います。最初は、ペトロや私たちと同じようにキリストに背を向け、私はあの人を知らないという弱さのなかにあったと思います。しかし自分のなかにある弱さを知ったとき、その弱い私を支え導きたもう、強き導き主イエスキリストの存在を知ることが出来たのではないでしょうか。

その強き救い主イエスキリストは、弱い私を決して見捨てることなく、愛してくださるのであるという信仰に立って、あの「主われを愛す」という賛美歌を作ったのではないかと推測するわけであります。

さて、信仰の弱いペトロは心もとない答えをするのですが、その答えを聞いて主イエスは何と言われたでしょうか。普通に考えれば、叱咤激励して、もっとしっかりしなさい、と言うのではないかと思います。でも主イエスは《イエスは、「わたしの小羊を飼いなさい」と言われた。》(15節)とあり、また《イエスは、「わたしの羊の世話をしなさい」と言われた。》(16節)と語られました。

これは彼に、信仰の指導者になりなさいという意味ですが、普通であれば信仰のしっかりした者が指導者に選ばれるはずです。でも主イエスは、信仰的にも人間的にも弱い、その弱さのままで信仰の指導者になりなさいと、ペトロに言います。そして使徒言行録を見ますと、強き主に導かれつつ、信仰の指導者として大きな働きをしたことが詳しく記録されています。

また同じように、私は弱いが私を導かれる主は強いのである、という信仰によって、私たちは福音宣教者として立つことが許されています。そしてその福音宣教によって、今日の礼拝のなかで、一人の洗礼者が与えられることが主から示されました。そして洗礼というのは、まさに私は弱いが私を導く主は強いのであることに気付いた罪人に与えられるものです。

洗礼はまた、悔い改めの洗礼という言い方をします。そして悔い改めるとは、自分のなかにある価値観や人生観の方向が転換することを意味します。つまり神に背をむけているときは、私は強く神は弱い、という信念に立っています。しかしその信念が逆転して、私は弱く主は強い、という理解に立ったとき、私は強いとの信念は消え去り、神と共に歩む信仰が生まれるのであります。

そして今日から私たちキリスト信仰者の群れに新しく加えられた受洗者に、主なる神は主キリストへの信仰を与え、永遠の命の救いを与えられました。私たちは新しい受洗者と共に、主を賛美し、共に主にある交わりを持つことが出来ることを感謝したいと思います。

アーメン





新約聖書 ヨハネによる福音書 21章15~19節

21:15 食事が終わると、イエスはシモン・ペトロに、「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」と言われた。ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの小羊を飼いなさい」と言われた。21:16 二度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの羊の世話をしなさい」と言われた。21:17 三度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロは、イエスが三度目も、「わたしを愛しているか」と言われたので、悲しくなった。そして言った。「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」イエスは言われた。「わたしの羊を飼いなさい。21:18 はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」21:19 ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである。このように話してから、ペトロに、「わたしに従いなさい」と言われた。