2006年10月1日日曜日
聖霊降臨後第17主日 「十字架への思い」
地図を広げて見ますと、どこにどんな道路や施設や建物があるかなどが、分かり易く書かれています。また、その施設や建物がどんな建物かが分かるように、記号などで表しています。例えば、学校とか市役所・交番・工場などなど。そしてキリスト教会も記号で表されています。でも教会を記号で表すとしたら、どんな記号が良いでしょうか。それは、十字架が最も良いと思います。
確かに地図には、キリスト教会を示す記号として[十字架]を使っています。でもどうしてでしょうか。それは十字架は、私たちのキリスト信仰を表し、キリスト教会の存在意義を表しているからです。また主イエスキリストの救い主としての使命は、十字架が示していると言えます。つまり十字架は、キリスト信仰全体を現していると言っても過言ではないでしょう。
先週の主日で、主イエスはメシアであり、十字架で殺されて復活するメシアであることを学びました。つまり《 それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。しかも、そのことをはっきりとお話しになった。》(マルコ8:31~32)とあります。
しかも本日の箇所にも、《それは弟子たちに、「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する」と言っておられたからである。》とあります。そしてこの御言葉からも、主イエスは十字架への歩みを確実に進めていたことが分かります。しかし弟子は意外な反応を示します。《弟子たちはこの言葉が分からなかったが、怖くて尋ねられなかった。》(32節)。
でもなぜ、弟子たちは怖がったのでしょう。それは主イエスが人々の手に渡されて殺されると言ったからです。この人々というのは、謂わば、主イエスの命を狙う暗殺者たちと言えます。そして暗殺者ですから、いつ来るか分からないし、イエスだけでなく自分たちも殺されるかも知れません。だから怖がったと推測されます(事実、主が十字架に架けられたとき、彼らは怖くなって逃げました)。
そして弟子たちの怖れは的中します。つまり主イエスは長老・祭司長・律法学者たちに苦しめられて殺されるわけですから、彼らがイエスの命を狙う暗殺者でした。でもこの暗殺者たちが、主を十字架にかけて殺すという罪を犯すことによって、神の救い主イエスキリストの使命が完成しました。ですから彼らは、主イエスの救いの業のために重要な役割を担うことになりました。
勿論、主を十字架にかけるという罪を犯したのは彼らだけではなく、私たちキリスト信仰者を初め、すべての罪びとは、自分の罪の思いによって、主を十字架にかけています。しかし主イエスは、その罪を贖なってくださったので、私たちは救われたのです。だからこそ、私たちキリスト信仰者は、十字架に架かられた主イエスの、十字架への思い、を知らなければなりません。
でも弟子たちは、主イエスにキリストの十字架の意味について、怖くて尋ねなかったために、主キリストの、十字架への思い、を知ることが出来ませんでした。これは弟子たちにとって、大きな信仰的な損失であり、少なくとも私たちは弟子たちと同じ損失を被る(こうむる)ことがあってはなりません。
主イエスが、どんな思いを持って十字架への道を歩まれたのか、その、十字架への思い、を知ることが、主イエスキリストという神の救い主の姿を最も正確に知ることになるのであります。しかし弟子たちは、この信仰の業を怠っていました。しかも彼らは、極めてこの世的なことに心を奪われていたようです。
そのことについて《 一行はカファルナウムに来た。家に着いてから、イエスは弟子たちに、「途中で何を議論していたのか」とお尋ねになった。彼らは黙っていた。途中でだれがいちばん偉いかと議論し合っていたからである。》(33節~34節)。でも主が十字架への道を歩んでいる最中に、弟子たちはなぜ全く関係のない話題を議論していたのでしょうか。その本当の理由は分かりません。
しかし弟子たちは、主に従うことを、この世的な利権と考えていたのかもしれません。そこには信仰者としての姿が消し去られています。人が一つのところに集まるとき、そこに組織が生まれ、人と人の間に権力という力関係が生まれ、上下関係が生まれてしまいます。その意味では、キリスト教会という組織体も例外ではありません。
しかし幸いなことに、少なくとも私たちのルーテル教会では、誰が一番偉いのか、ということが話題になることはなく、権力闘争とか上下関係などは、あまり存在しません。でもそれには、はっきりとした理由があります。それはキリスト教会が寄って立つのは、「聖書のみ」「信仰のみ」という信仰の原点を外さないからであり、そこには、この世的な権力闘争が入り込む余地はありません。
そして私たちが救われるのは、聖書のみ・信仰のみであり、また聖書が語る十字架のキリスト以外に、救いはないという信仰に固く立って欲しいと願うのが、まさに十字架に架かられた主キリストの思いであります。さらに、十字架のキリストによって救われたすべての罪人は、互いに争そってはならないし、信仰の兄弟姉妹の間で、支配する者と支配される者があってはなりません。
主イエスは教えられます。《イエスが座り、十二人を呼び寄せて言われた。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」》(35節)。すなわち主キリストの十字架によって、罪を贖われた者たちは、互いに仕え合う者として奉仕することが、主イエスの、十字架への思い、であり、その思いを知ることが、私たちに求められています。
先程も申し上げましたが、少なくとも私たちのルーテル教会には、この世的な権力闘争はないようです。でも、キリスト教会2000年の歴史においては、幾度となく権力闘争を繰り返してきました。しかし主キリストはこの世的な権力闘争をする者たちのために、十字架に架かられたのではありません。
少なくとも信仰の兄弟姉妹は、聖書のみ・信仰のみという立場に固く立たねばなりません。また主キリストは、聖書のみ・信仰のみ、という罪びとたちの群れのために十字架にかかられました。そのような主キリストの、十字架への思いを、知ること、覚えること、保つこと。これが、キリスト信仰、なのです。
アーメン
新約聖書 マルコによる福音書 9章30~37節
9:30 一行はそこを去って、ガリラヤを通って行った。しかし、イエスは人に気づかれるのを好まれなかった。9:31 それは弟子たちに、「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する」と言っておられたからである。9:32 弟子たちはこの言葉が分からなかったが、怖くて尋ねられなかった。
9:33 一行はカファルナウムに来た。家に着いてから、イエスは弟子たちに、「途中で何を議論していたのか」とお尋ねになった。9:34 彼らは黙っていた。途中でだれがいちばん偉いかと議論し合っていたからである。9:35 イエスが座り、十二人を呼び寄せて言われた。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」9:36 そして、一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて言われた。9:37 「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」
