2006年10月8日日曜日

聖霊降臨後第18主日 「信じれば仲間」




今日の夕方から明日9日にかけて、伝道フォーラム全国大会が旭川教会で行われます。この集会は、キリスト信仰者を対象にした研修会のようなものです。ですからその集会には「主キリストは私たちの救い主」という一致した信仰を持つ者だけが集まります。また参加者たちは、主に在る兄弟姉妹とか、信仰の兄弟姉妹、などという表現を用いて互いの信仰の一致を理解し合います。

勿論、私たちキリスト信仰者が、主に在って一つの仲間であることを強調し、確認することは良いことだと思います。けれどもその反面、仲間による結束が強ければ強いほど、仲間でない者たちを排除するという傾向を持ちます。それはキリスト教会も例外ではありません。確かに、主なる神以外のものを信じる者を排除するのは理解できます。

けれども、キリスト教会の各教派・教団間で、互いに他の教派・教団を排除するということが起こるとしたら、それは少し違うと思います。主キリストに対する信仰は一つです。でもその信仰表現は様々です。主イエスは言います。《 ヨハネがイエスに言った。「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました。」イエスは言われた。「やめさせてはならない。わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい。わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである。》(38節~40節)と教えます。

使徒ヨハネは、主イエスに従わないのに、主イエスの名を使って悪霊を追い出し、あたかも自分がキリストの弟子であり、主キリストの信仰者の一人であるかのように振舞っていたので、そのようなことをするな、と言って止めさせたと思われます。ここでヨハネが強く意識したのは、その者が自分たちの群れに属していないし、自分たちの仲間ではないということでした。

しかもここでヨハネは、私たちに従わないという表現を使っており、「主イエスに従わないので」と言っていません。つまり誰がキリストの群れに属する仲間なのかを決めるのは、自分たちだと考えていたのではないでしょうか。それは弟子たちが、カファルナウムへ行く途中で、誰が一番、偉いのかと議論していたのと同じ罪のなかにあったようです。それは高慢という罪の故であると言えます。

主イエスはここで弟子たちの高慢さを見ておられ、他者を排除するのではなく受け入れるように、あなたの信仰の思いを用いるようにと教えます。すなわちキリスト教会に来る者を排除するには信仰はいりません。しかし一人の人を受け入れるには、信仰が必要であり、信仰の賢さがなければ正しく受け入れることが出来ません。

しかしだからと言って、教会に来る人はどんな人でも受け入れるということではありません。そのことについて主イエスは《はっきり言っておく。キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける。」》(41節)と教えられます。でもキリストの弟子だということで、一杯の水を飲ませてくれる人とは、どういう人でしょうか。

それは少なくとも、私たちの敵ではありません。教会とそこに集う私たちを応援してくれる人たちです。それらの人たちは、まだはっきりとした信仰の告白を持っていないかも知れません。でも主イエスに味方する人であり、主イエスを信じたいと心のどこかで願い続けている人です。もしかしたら、もう信じようと決めているかも知れません。それはあなたの家族や知人・友人かも知れません。

このように、たとえ何となくであっても、主イエスキリストを、信じれば私たちの信仰の仲間です。どんなに小さな信仰でも主なる神を、信じれば仲間、であると主は言われます。つまり、キリスト教会に来る人は、誰でも受け入れるのではありません。私たちの信仰を応援し、水一杯の奉仕をしてくれる人は、主イエスを信じる人であり、信じれば私たちの仲間、として受け入れることが出来ます。

ですから主イエスは次のように語ります。《「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい。》(42節)と教えられます。つまり主イエスを信じる信仰が、どんなに小さくても、その信仰を排除して、その人に躓きを与えてはならないのであります。なぜなら、主を信じるなら誰でもキリストの仲間、だからです。

ですからそれらの仲間を排除し、躓かせる要素をあなたから取り除きなさい、と主は言われます。勿論、主イエスが43節~48節で語っているのは、もののたとえ、であり実際に、自分の手足を切り取れということではありません。そうではなく、小さな信仰を切り捨て排除し、躓かせることは、自分の手足を切り取るほどの痛みを伴うことであることを忘れてはならないと主は教えられるのです。

また私たちはキリストの福音という塩味によって、信仰者としての人格と人間性が作り上げられていくようにと、主は教えられます。主イエスは語られます。《人は皆、火で塩味を付けられる。 塩は良いものである。だが、塩に塩気がなくなれば、あなたがたは何によって塩に味を付けるのか。自分自身の内に塩を持ちなさい。そして、互いに平和に過ごしなさい。」》(49節~50節)。

そして主イエスがここで私たちに伝えたかったのは、互いにキリストの福音と救いによって平和に過ごしなさい、ということでした。そのキリストの救いによる平和を壊すものが、排除と躓きによる差別です。勿論、信仰の兄弟姉妹が互いに仲間意識を持つことは悪いことではありません。でもその仲間意識が、排除と躓きという差別によって培われてはなりません。

私たちの仲間は、閉じられた仲間意識によるものではありません。また閉鎖的な仲間づくりを目指してはいません。そうではなく、常に新しい仲間を求める仲間意識によるものです。たとえ何であれ主イエスキリストを、信じれば仲間、です。そして、キリスト教会の門は、主イエスを信じる仲間たちに向かって、広く開かれているのであります。

アーメン





新約聖書 マルコによる福音書 9章38~50節

9:38 ヨハネがイエスに言った。「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました。」9:39 イエスは言われた。「やめさせてはならない。わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい。9:40 わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである。9:41 はっきり言っておく。キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける。」

9:42 「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい。9:43 もし片方の手があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両手がそろったまま地獄の消えない火の中に落ちるよりは、片手になっても命にあずかる方がよい。9:44 (†底本に節が欠落 異本訳)地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない。9:45 もし片方の足があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両足がそろったままで地獄に投げ込まれるよりは、片足になっても命にあずかる方がよい。9:46 (†底本に節が欠落 異本訳)地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない。9:47 もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出しなさい。両方の目がそろったまま地獄に投げ込まれるよりは、一つの目になっても神の国に入る方がよい。9:48 地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない。9:49 人は皆、火で塩味を付けられる。9:50 塩は良いものである。だが、塩に塩気がなくなれば、あなたがたは何によって塩に味を付けるのか。自分自身の内に塩を持ちなさい。そして、互いに平和に過ごしなさい。」