2006年10月22日日曜日

聖霊降臨後第20主日 「信仰の欠け」




巨万の富を持つ者が、最後に手に入れたいと願うのは、神になることだそうです。そして実際に、神のように振舞った者もいます。でもそれは所詮は錯覚で、その人間が死んだらそれは無くなってしまいます。また神になりたいとまでは行かなくても、より良い人間になろうとか、より完璧な生き方をしたいと願う者は、たくさんいます。

けれども多くの場合、良い行いをしたいと思いつつも、実際は、悪いことはしないが、さほど良い行いもしていないというのが実情です。けれども本日の箇所に、子供ころから善い行いをしていたと言う一人の人が登場します。《イエスが旅に出ようとされると、ある人が走り寄って、ひざまずいて尋ねた。「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。」》(17節)。

さてここで、疑問に思うことがあります。そそれは彼の言った[善い先生]という言葉です。なぜ、彼は主イエスに善い先生と言ったのでしょうか。これは偶然、このように言ったのではありません。彼は子供のころから、善い行いを熱心に続けてきました。またそれを自慢に思っていました。そして彼の目から見れば、主イエスは自分よりさらに善い行いをしているように見えました。

だから彼は主イエスと自分とは、善い行い、という共通のものがあり、自分と主イエスは善い行いをする仲間だ、と思ったようです。しかし、それは違う、と言います。《イエスは言われた。「なぜ、わたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。》(18節)と教えられました。

でも主イエスはここで、「私は神の子であり、お前は単なる一人の罪人に過ぎない。だからお前と一緒にするな」と言っているのではありません。そもそも我々、人間の行いは神の目から見て、真の善い行いとなるものはありません。私たちが良いことをしていると思っている、奉仕活動や募金など、それらはすべて人間のごく普通の日常的な営みの一つなのです。

ですからこのことを教えるために《『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ。」すると彼は、「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と言った。》(19節~20節)とあります。でも彼はなぜ、このように自信を持って言えたのでしょうか。彼は法螺(ほら)を吹いたわけではありません。

しかも主イエスがここで挙げたことは、モーゼの十戒のうちの第四の戒めから第十の戒めにあることです。モーゼの十戒はユダヤの律法の根幹です。その十戒を、子供の時から守ってきたと断言できる者は多くはないと思います。そして第四の戒めから第十の戒めは、隣人との関わりについて書かれたものですので、これを守ることは、隣人に何の罪も犯していないことを意味します。

そんなことが本当に可能でしょうか。そもそも人の罪は、その多くが心の貧しさと経済的な貧しさが要因となります。また場合によっては、経済的な豊かさが心の貧しさを補うこともあります。そして彼は、たくさんの財産を持っていた、とあります。つまり彼は、豊かであるために、殺す必要はなく、盗む必要はなく、偽証したり、奪い取ったりする必要はありません。

また自分を豊かにしてくれる、父母を敬うのは難しいことではありません。つまり彼は何もしなくてもモーゼの十戒を守ることが出来たのです。彼は子供と時から守ってきたというのは、子供の時から何も行わなかったから守れたのです。彼は何もしなかった、だから善い行いが出来たのです。つまり何もしないという、善い行いをし続けたのです。でもそれは、どこか違います。

そこで主イエスは彼に一つの行動を起こすように促します。《イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた。「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」》(21節)と教えます。でもここで私たちは誤解をしてはならないことがあります。

それは主イエスはここで彼に、財産を持っていることが悪いと言っているのではありません。なぜならユダヤの律法によれば、豊かであることは神の祝福でによるものだからです。つまり財産があることは悪いことではありません。そうではなく、彼は真の豊かさを知らなかったのです。しかも彼の財産に執着する想いが、信仰によって主イエスに従うという真の豊かさを知ることを妨げたのです。

ですから主イエスが、ここで一つの行動を起こせと言うのは、財産を売り払って貧乏になることではありません。そうではなく、信仰によってイエスに従うという真の豊かさを妨げるのは、あなたの財産対する執着です。それを取り除く行動を起こせと言います。それが、彼に欠けている一つのことです。つまり財産への執着が、信仰の欠け、となっています。つまり、あることが欠け、なのです。

ですから主イエスは、彼に貧乏になれば救われると言っているのではないことに注意しなければなりません。なぜなら、主に従うことは経済的に貧乏になることではありません。もしそうだったら信仰がなくても貧乏な人はみんな救われることになります。また豊かな人は誰でも信仰があっても救われないことになるのです。

主イエスが彼に一つの行動を起こせと言ったのは、貧乏になれということではなく、主イエスに従えということです。そして主イエスに従うことを妨げ、信仰の欠け、となる財産への執着心を手放せというのです。彼にとって財産は彼の前に立ちはだかり、主イエスを見えなくするものです。さらに、私たちの前に立ちはだかるものが、私たちに取っての、信仰の欠け、となります。

またこの、信仰の欠け、は人によって違います。ある人は財産であり、ある人にとっては社会的名誉や名声、またある人にとっては自分自身の人生観や価値観が、妨げとなり、またある人にとってはこの世的な人間関係やこの世の柵(しがらみ)が、信仰の欠け、となります。その、あなたの信仰の妨げとなり、信仰の欠け、となっていることを捨てて、私に従いなさいと主イエスは言われます。

私たちキリスト信仰者もさまざまな信仰の妨げを持っています。それゆえに、さまざまな、信仰の欠け、があります。でもその欠けを自分の努力で取り除くことは出来ません。主イエスは教えられます。《イエスは彼らを見つめて言われた。「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ。」》(27節)。

このように教えて下さり、私たちの欠けを贖って神の御国に招いてくださる、主イエスに従いたいと思います。たとえどんな、信仰の欠け、があっても。

アーメン





新約聖書 マルコによる福音書 10章17~31節

10:17 イエスが旅に出ようとされると、ある人が走り寄って、ひざまずいて尋ねた。「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。」10:18 イエスは言われた。「なぜ、わたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。10:19 『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ。」10:20 すると彼は、「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と言った。10:21 イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた。「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」10:22 その人はこの言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。10:23 イエスは弟子たちを見回して言われた。「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。」10:24 弟子たちはこの言葉を聞いて驚いた。イエスは更に言葉を続けられた。「子たちよ、神の国に入るのは、なんと難しいことか。10:25 金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」10:26 弟子たちはますます驚いて、「それでは、だれが救われるのだろうか」と互いに言った。10:27 イエスは彼らを見つめて言われた。「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ。」10:28 ペトロがイエスに、「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました」と言いだした。10:29 イエスは言われた。「はっきり言っておく。わたしのためまた福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた者はだれでも、10:30 今この世で、迫害も受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も百倍受け、後の世では永遠の命を受ける。10:31 しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。」