[日曜クリスチャン]という言葉があります。でもあまり良い意味で使われていません。これは、日曜日に礼拝に来たときだけ、自分はキリスト信仰者であることを意識するが、礼拝が終わって教会の玄関を出た途端、それをすっかり忘れ、週日の日常生活のなかでも、自分がキリスト信仰者であることを思い起こすことが殆どない。そんな信仰者を、日曜クリスチャンというのだそうです。
勿論、これは好ましいことではありません。でも、何故、好ましくないのでしょうか。その理由が本日の箇所のマルコ8章27節に書かれています。《イエスは、弟子たちとフィリポ・カイサリア地方の方々の村にお出かけになった。その途中、弟子たちに、「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」と言われた。》とあります。
この問いかけによって、弟子たちは主イエスキリストが神のメシアであり、また十字架に掛けられて殺され、三日目に復活されるメシア、すなわち救い主であることを知ることが出来ました。しかも、このことを主イエスは弟子たちに、はっきりと教えられました。でもこんな重要なことは、安息日の教会での礼拝のときに教えられるべきことです。
しかし、主イエスが弟子たちに、はっきりとこの事実を教えられたのは、フィリポ・カイサリア地方に出かけたその旅のその途中であったことが分かります。つまり日曜日の主日礼拝のときではなく、週日の普段の生活を過ごしている。そんなときに、主イエスは弟子たちに、そして私たちキリスト信仰者に、このような重要なことを教えられることがあるのです。
この事からも分かりますように、主なる神が私たちキリスト信仰者に大切な、神の御旨を伝え神の御業を示されるのは、主日礼拝のときだけではない。ごく普通の日常生活のなかにおいても、大切な御旨や御業を示されるのです。そのとき、私たちが日曜クリスチャンになっていて、普段は信仰者であることを忘れていたならば、この大切な神の御旨や御業を見過ごしてしまいます。
だから私たちは日曜クリスチャンであってはならないのです。さて次に、人々は私を何者と言っているか、との問いに弟子たちは、洗礼者ヨハネだという者やエリヤだとか預言者の一人だとか言う者がいますと答えました。でも主イエスは弟子たちに聞きたかったのは、このことではありません。
そうではなく《そこでイエスがお尋ねになった。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」》(29節)。これが聞きたかったのです。つまり他人がどう言うのかではなく、あなたが一人のキリスト信仰者として、自分のこととして、主イエスキリストをどのように信じて信仰を告白するかを聞いています。
私たちが、主イエスへの信仰を告白するのは、主日礼拝のときだけではありません。日常のごく普通の生活のなかでも、主キリストへの信仰の告白を求めておられます。その観点からも私たちは、日曜クリスチャンであってはならないのです。さて、そこで弟子たちは、自分のこととして、信仰の告白をします。《ペトロが答えた。「あなたは、メシアです。」》(29節)。
これで正解です。しかし主イエスから意外な反応が返ってきます。《するとイエスは、御自分のことをだれにも話さないようにと弟子たちを戒められた。》(30節)。でも何故でしょうか。詳しい理由は分かりませんが、彼らのメシア理解に問題があったと思われます。つまり当時のユダヤでは、王や預言者が神から任命されると、その人はメシアと呼ばれていました。
その主イエスの心配は的中したようです。《それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。しかも、そのことをはっきりとお話しになった。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。》(31節~32節)のでした。
ペテロを始め弟子たちは、主イエスにこの世的な権力を持つメシアを見ていたようです。しかし神の御子イエスキリストというメシアは、多くの苦しみを受けて十字架に架けられて殺され、三日目に復活する救い主なのです。またこのような使命を父なる神から託されたメシアが、主イエスキリストなのです。この神の使命を弟子たちに、はっきりと教えられたのです。
だから弟子たちも私たちキリスト信仰者も、主イエスが31節で教えて下さったように信仰の告白をしなければなりません。そのことを私たちと弟子たちに求めています。つまり主イエスは、自分自身の信仰の意志に基づき、自分のこととして、信仰を告白することを求めています。しかしそれは、自分勝手な思い込みによる告白であってはなりません。
つまり十字架のキリストということ以外の告白があってはならないのです。しかし使徒ペトロも他の弟子たちも主イエスが父なる神から与えられたメシアを信じることが出来ませんでした。この世的なメシアを夢見ていたようです。だから主イエスは言います。《 イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」》(33節)。と教えられます。
私たちは主日礼拝などで使徒信条やニケヤ信条によって、他の信仰の兄弟姉妹たちと一緒に、声を合わせて信仰告白をします。しかし一緒に同じ告白をするからと言って、声を合わせればよいということではありません。信仰の告白は同じ告白でなけれはなりませんが、その信仰告白の言葉、一つひとつは、私の言葉であり、私の告白なのです。
他の人の告白ではなく、自分の告白であり、また、自分のこととして、告白し、そして主キリストの十字架の死と復活の出来事を、自分のこととして、捉える。そのことを、私たちキリスト信仰者に求めておられることを、本日の箇所を通して、今一度、覚えたいと思います。
アーメン
新約聖書 マルコによる福音書 8章27~38節
8:27 イエスは、弟子たちとフィリポ・カイサリア地方の方々の村にお出かけになった。その途中、弟子たちに、「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」と言われた。8:28 弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」8:29 そこでイエスがお尋ねになった。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペトロが答えた。「あなたは、メシアです。」8:30 するとイエスは、御自分のことをだれにも話さないようにと弟子たちを戒められた。
8:31 それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。8:32 しかも、そのことをはっきりとお話しになった。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。
8:33 イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」8:34 それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。8:35 自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。8:36 人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。8:37 自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。8:38 神に背いたこの罪深い時代に、わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るときに、その者を恥じる。」
