2006年10月15日日曜日
聖霊降臨後第19主日 「人の思いを打ち破る」
最近、マスコミで「2007年問題」という言葉が取り上げられることがあります。それは所謂、団塊の世代(おもに昭和22年~24年生まれの人たちの世代を言う)が来年、2007年以降、60歳定年を迎えます。そこには、退職金とか年金・老人福祉など、様々な社会問題が起こると言われています。また、定年を契機に熟年離婚が増えるとも言われています。
しかも、団塊の世代というのは、男が始めて自己主張をしなくなった世代であり、同時に女が始めて自己主張をした世代、とも言われています。ですから本日の箇所でファリサイ派の人たちが《「夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」と尋ねた。イエスを試そうとしたのである。》(2節)と言ったのと、事態が丁度、逆のようです。
しかし、男からであろうが女からであろうが、一つの夫婦の間に離婚という問題が起こることは同じです。また一つの家族が、離婚という罪の出来事によって壊れてしまうことに変わりはありません。それは父なる神が立てられた、結婚の秩序を人間的な思いによって壊し、神と隣人に対して罪を犯すことになるのです。
さてそこで、ファリサイ派から、離縁の有効性について聞かれたとき、人間的な思いを優先させてはならないと主は言います。《イエスは、「モーセはあなたたちに何と命じたか」と問い返された。彼らは、「モーセは、離縁状を書いて離縁することを許しました」と言った。イエスは言われた。「あなたたちの心が頑固なので、このような掟をモーセは書いたのだ。》(3節~5節)と教えます。
つまり離婚は良いことではないが、人間の思いの頑固さによって、より深刻な事態を回避するために、止むを得ず認めただけだと言います。例えば私たちが離婚を考えたとき、それはいつも、どうしたら離婚できるか、どうしたら自分に有利に事を運べるか、だけに心が向いてしまいます。しかし主イエスは、離婚を考えるときは、父なる神が立てた結婚の秩序について考えるように教えます。
つまり結婚には父なる神の秩序があり、結婚や新しい家族という出来事に父なる神が関わって下さいます。そして父なる神が関わる結婚生活を過ごすには信仰が必要です。ということは、結婚生活は信仰なしには成り立たないものなのです。さらに信仰が必要ということは、結婚生活もまた、主イエスキリストによる十字架の救いが必要であるということなのであります。
また主キリストによる救いを祈り求めるとき、そこには、人の思いを打ち破る、父なる神の愛、主キリストの恵み、聖霊の導きが、結婚生活の只中にあることを覚えなければなりません。結婚は自然発生的に生まれるものではなく、そこには父なる神の秩序と御旨があります。ですから、離婚を考えるときは、結婚の秩序を与えて下さった、神の御旨を尋ね求めなければなりません。
主イエスは言います。《しかし、天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった。それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから二人はもはや別々ではなく、一体である。》(6節~8節)。つまり結婚は、二人の自由な意思によって始められるものですが、それは二人の者が一体となるという父なる神の秩序があり、神の祝福と導きがあることを忘れてはならないのです。
この、二人は一体、という一体という言葉は[一人の人間]という意味の言葉が使われているそうです。つまり二人の人は、父母を離れて一人の人間となる。それが結婚という神の秩序です。また一人ひとりが、それぞれの信仰によって救われるように、夫婦という一人の人間もまた、信仰によって救いに与る。それが神の秩序であり、神の御旨なのだと主イエスは教えられます。
そして私たちが、このように教えてくださる主イエスに信仰によって従うならば、たとえ自分たちの結婚生活に失敗があったとしても、主イエスは、その失敗を贖うために十字架への道を歩んで下さいます。また、もし私たちが離婚という罪に陥ったとしても、主は十字架の死によって離婚とうい罪を贖って下さるのであります。そこには、我々、人間たちの罪の思いを打ち破る、主キリストの十字架の痛みによる救いがあることを忘れてはなりません。
さらにこの、人の思いを打ち破る、神の御旨について、もう一つの出来事がありました。それは子供に対する配慮の問題でした。《 イエスに触れていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。しかし、イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」》(13節~15節)。
でも、何故、弟子たちはこの人たちを叱ったのでしょうか。それはおそらく、イエスキリストが大勢の人たちに福音を宣べ伝え、人々に教えておられたとき、だったと思います。それは主日礼拝の真っ最中、と同じ状況です。またルカ18章15節によりますと《人々は、乳飲み子までも連れて来た》とあります。つまり0歳児から2・3歳児です。
その子供たちは主イエスの福音が分からないだけでなく、騒いだり泣いたりするだけです。そのように主イエスに迷惑をかける子供たちを排除するのは大人の常識です。しかしその大人の常識的な配慮について、主イエスは憤られたのです。それは人間的な思いや配慮が、主なる神の御旨に適わなかったことを意味します。私たちはこれらの配慮は、神も喜んで下さると思っていました。
しかしそうではありません。そもそも主イエスキリストの福音宣教の目的は何でしょうか。それは、すべての人が神の御国に招かれることです。そのなかには、子供たちは勿論、乳飲み子も数えられているのです。その子供や乳飲み子を、福音が語られている場や、礼拝の場から排除してはならないのです。
このように、主キリストの恵みによる救いという神の福音は、人の思いを超えるものであり、人の思いを打ち破る、ものです。離婚の問題にしても、福音がまだ分からない子供たちが、神の御国に招かれていることにしても、ここには、我々、人間の思いを超えた神の御計画と、人の思いを打ち破る、神の御旨があることを覚えたいと思うのであります。
アーメン
新約聖書 マルコによる福音書 10章1~16節
10:1 イエスはそこを立ち去って、ユダヤ地方とヨルダン川の向こう側に行かれた。群衆がまた集まって来たので、イエスは再びいつものように教えておられた。10:2 ファリサイ派の人々が近寄って、「夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」と尋ねた。イエスを試そうとしたのである。
10:3 イエスは、「モーセはあなたたちに何と命じたか」と問い返された。10:4 彼らは、「モーセは、離縁状を書いて離縁することを許しました」と言った。10:5 イエスは言われた。「あなたたちの心が頑固なので、このような掟をモーセは書いたのだ。10:6 しかし、天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった。10:7 それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、10:8 二人は一体となる。だから二人はもはや別々ではなく、一体である。10:9 従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」10:10 家に戻ってから、弟子たちがまたこのことについて尋ねた。10:11 イエスは言われた。「妻を離縁して他の女を妻にする者は、妻に対して姦通の罪を犯すことになる。10:12 夫を離縁して他の男を夫にする者も、姦通の罪を犯すことになる。」
10:13 イエスに触れていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。10:14 しかし、イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。10:15 はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」10:16 そして、子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された。