最近、教育現場の荒廃が大きな社会問題となっています。その中で私たちが心を痛めるのは、いじめによる子供の自殺の問題です。そして滝川市内の小学校で、いじめで六年生の女子児童が自殺をしています。また福岡市内の中学校でも二年生の男子生徒が、いじめを苦に自殺をした事件は、私たちの記憶に新しいところです。
なぜ一人の子供が外の児童や生徒から、いじめを受けるのか。その原因は様々です。しかしその事態が深刻化していくには、ある一つの共通したことがあると言われています。それは、いじめを受けている子供が、自分がいじめを受けていることを声に出さないことだそうです。誰にも言わないで、自分で何とかしようと思い、家族や親や先生に黙っているうちに、事態が益々、悪くなっていくのです。
相手が誰であれ、人が他の人をいじめたり苦しめたりしてはならないことは当たり前です。それと同時に、いじめを受けたときは、早く声に出していくことが大切です。さらに良い意味で、「自分という一人の人間がここにいる。私の存在を心に留めてくれ」と自己主張することも大切なことです。なぜなら、いじめは一人の人間の存在を軽んじたり、否定することから始まるからです。
そしてもしかしたら、この人も周りからいじめを受けていたのではないかと思われる一人の盲人の姿が描かれています。その人は目が不自由であったのが、いじめを受けていた原因と思われます。また彼も、いじめを受けていても声に出さず、もし声に出したらさらにひどい差別と苦しみに合うであろうことを知っていました。彼は黙って物乞いをするしか、生きる術がないことを知っていたのです。
しかし滝川と福岡で、いじめを受けても黙っていた子供たちは、黙っていたからといって何も考えていなかったわけではなく、何も感じていなかったのでもありません。まさに自分の命を自らの手で終わらせてしまうほど、悩み苦しんでいたのです。その意味では、この盲人バルティマイも同じでした。
彼がもし主イエスに出会うことなく、また、私を憐れんでくださいと叫ばなかったら、彼も自分の命を自分で終わらせるという、結論を選び取ったかも知れません。しかし彼は主イエスと出会って、彼の人生は大きく変わりました。彼は廻りの人々には何も言わなかったのに、主イエスにだけは「ここに私がいます。私を心に留めてください」と叫びました。そして主はその声を聞かれたのです。
あの滝川で自殺した女の子は、クリスチャンホームで育った子供さんのようです。もしあの子が、もう少し早くこの主イエスと盲人バルティマイの出来事を、聖書から学んで信じることが出来たら、死なずに済んだかも知れません。しかしあの子が自殺したことが切っ掛けで、国や政府が、いじめ問題と真剣に取り組み始めました。いじめで自殺した子供が出たことによって、国家が動いたのは初めてです。
もしかしたら、あの女の子は全国でいじめに苦しむ子供たちを助けるために、神様から特別な使命が与えられていたのかも知れません。勿論、国や政府は自殺者が出る前に動くべきです。その意味では道も国も、動くのが遅いのであり非常に残念です。また、ここで私たちキリスト信仰者も、このいじめの問題を、キリスト信仰の立場から考えて見たいと思います。
このことについて《一行はエリコの町に着いた。イエスが弟子たちや大勢の群衆と一緒に、エリコを出て行こうとされたとき、ティマイの子で、バルティマイという盲人の物乞いが道端に座っていた。 ナザレのイエスだと聞くと、叫んで、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と言い始めた。》(46節~47節)とあります。
この記述によると主イエスはエリコに着いて、すぐにこの町を出ようとしていました。その僅かな時を掴んで、彼は主イエスに叫びました。私たちは神はいつでもどこでも、自分が心に念じれば、そこに神がおられるように思います。でもそうではないようです。つまり私たちが主イエスに出会うのに、時、があります。その時は、主なる神が備えてくださいます。
その備えられた時を逃さずに、彼は主に向かって叫びました。「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」。この叫ぶというのは、祈るという意味の言葉が使われているそうです。つまり熱心に叫ぶが如くに、私を憐れんでください、と祈ったのです。そして、憐れむというのは、私を覚えてください、私がここにいることを覚え、私を、心に留めてください、という意味です。
しかも彼が願ったことはこれだけです。何か特別なことを願ったのではありません。ただ、私はここに生きています、私の存在を覚えてください、私を心に留めてください、と言っただけです。これは神に創造された人間として当然であり、最低限の自己主張です。しかもこれは主日礼拝での、キリエ、です。つまり私たちも毎週の礼拝で、主に向かって、心に留めてください、と祈っています。
また盲人バルティマイも私たちキリスト信仰者も、これ以外のことを要求しません。それが信仰です。しかしそれを妨げ、黙らせようという力が廻りにありました。《 多くの人々が叱りつけて黙らせようとした》(48節)とあります。そして彼を黙らせる者たちの力を、私たちは現代社会のそして学校の現場の荒廃に、それを見る思いがいたします。
しかし、私がここに生きている、私の存在を認めて欲しいという願いを、誰も奪う権利はないことを自殺した子供たちから、学ばなければなりません。ですから主イエスは、私を心に留めてくださいという祈りを聞いてくださいます。《 イエスは立ち止まって、「あの男を呼んで来なさい」と言われた。人々は盲人を呼んで言った。「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ。」》(49節) 。
ここで私たちが注目するのは、バルティマイが私を、心に留めてください、と声を出したとき、主イエスがその声を聞いてくださっただけでなく、回りの人々も「安心しなさい。立ちなさい。」と彼の声を聞き、彼の存在とその主張を認めたことです。このように良い意味での自己主張は必要であり、そしてうまく自己主張が出来ない子供たちを、我々、大人と社会全体が支える責任があると思います。
さらに自分の存在を主張したバルティマイに《 そこで、イエスは言われた。「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」盲人は、すぐ見えるようになり、なお道を進まれるイエスに従った。》(52節)とあります。自分を心に留めてもらったバルティマイは、主イエスに従いました。つまり私たちを心に留めてくださる、主イエスに従うことが、キリスト信仰者の生き様であることを、盲人バルティマイから改めて学ぶことが出来るのであります。
アーメン
新約聖書 マルコによる福音書 10章46~52節
10:46 一行はエリコの町に着いた。イエスが弟子たちや大勢の群衆と一緒に、エリコを出て行こうとされたとき、ティマイの子で、バルティマイという盲人の物乞いが道端に座っていた。10:47 ナザレのイエスだと聞くと、叫んで、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と言い始めた。10:48 多くの人々が叱りつけて黙らせようとしたが、彼はますます、「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と叫び続けた。10:49 イエスは立ち止まって、「あの男を呼んで来なさい」と言われた。人々は盲人を呼んで言った。「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ。」10:50 盲人は上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスのところに来た。10:51 イエスは、「何をしてほしいのか」と言われた。盲人は、「先生、目が見えるようになりたいのです」と言った。10:52 そこで、イエスは言われた。「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」盲人は、すぐ見えるようになり、なお道を進まれるイエスに従った。
