2006年11月5日日曜日
全聖徒の主日 「祈りがなくなれば」
四つの福音書を見ますと、主イエスキリストが行った奇跡について多くのことが記録されています。そして主イエスの奇跡は、沢山の人々を神の救いと恵みに導き、人々の悲しみを喜びに変え、苦しみを安らぎに変えていきました。ところが本日の箇所には、主イエスの奇跡に対する私たちの理解を覆すようなことが書かれています。
さて本日の箇所は、マルコ11章12節~25節ですが、ここには主イエスに呪われた一本のいちじくの木と、翌日にはこの木が根元から枯れていたことが書かれています。それだけならば主イエスによる警告として信じることができます。ところが15節~19節には、宮清め、の記事が書かれています。それは呪われたいちじくの木の出来事と、全く関係がないように思われます。
でも福音書記者マルコは、この関係のない二つの出来事を、何の意味もなく書くだろうかという疑問が残ります。というよりこの二つの出来事には、何らかの関わりがあり、主イエスご自身がこの二つの出来事を関連付けて理解するようにと教えているのです。葉が生い茂るいちじくの木と、沢山の人たちで賑わうエルサレム神殿の境内に、主イエスは何を見たのでしょうか。
それを知ることが出来るのが、17節の御言葉です。つまり《 そして、人々に教えて言われた。「こう書いてあるではないか。『わたしの家は、すべての国の人の/祈りの家と呼ばれるべきである。』/ところが、あなたたちは/それを強盗の巣にしてしまった。」》とあります。主イエスがここで引用したのは、イザヤ書56章7節です。
でも主イエスはなぜこの御言葉を引用したのでしょうか。それはエルサレム神殿の境内を利用する沢山の人々の賑わいでした。しかしその賑わう人々に、信仰の実りと祈りを見ることが出来ませんでした。しかも祈りがないだけでなく、神殿を訪れる巡礼者たちを相手に商売する者たちの賑わいでした。しかし主イエスは、神殿は商売のためのものではないと言います。
つまり預言者イザヤが語ったように、エルサレム神殿は商売の家ではなくユダヤ人を始め、すべての国の人々の祈りの家として作られたものです。その祈りの家を商売のために利用したら、それはもはや祈りの家とはなりません。そして神殿から信仰者の、祈りがなくなれば、神殿はあの呪われたいちじく木と同じように、枯れてしまうのです。
だから主イエスは、エルサレム神殿の祈りの消えた賑わいを排除したのです。《 それから、一行はエルサレムに来た。イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いしていた人々を追い出し始め、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けをひっくり返された。また、境内を通って物を運ぶこともお許しにならなかった。》(15節~16節)のです。
そして祈りのない神殿の賑わいは、葉が生い茂っていても何の実りも付けていない、いちじくの木の有り様と同じです。エルサレムの神殿やキリスト教会がどんなに賑わっていても、そこに集う私たちキリスト信仰者に、祈りがなくなれば、私たちのキリスト教会もまた、あの呪われたいちじくの木と同じように枯れてしまうであろうと、主イエスは警告を発しておられるのであります。
でもここでいちじくの木を呪ったのは、主イエスが空腹だったからではないかとも考えられます。、また空腹で腹立ち紛れに呪ったのではないかとも考えられます。しかしそうではありません。葉が生い茂っているのに、いくら探しても実を結んでいないのは、神殿で商売をしたり、商売の場を提供している神殿の指導者に信仰がないことを表しており、それは神の呪いを招くと厳しく警告をしています。
しかしその警告に宗教指導者たちは、強い憎しみを抱きました。《 祭司長たちや律法学者たちはこれを聞いて、イエスをどのようにして殺そうかと謀った。群衆が皆その教えに打たれていたので、彼らはイエスを恐れたからである。》(18節)とあります。ここで私たちは、一つの注目すべき御言葉に出会います。
それは、群衆が皆その教えに打たれていた、という言葉です。つまり主イエスが預言者イザヤの言葉を引用して人々に教えたとき、境内にいた人々は、エルサレムの神殿が何のためにあるのかについて、改めて気付きが与えられました。つまり神殿は、自分たちの礼拝の場であり、自分たちの祈り家であることに気付いたのです。
そしてこの気付きは、私たちキリスト信仰者の気付きと同じです。神殿にしても私たちのキリスト教会にしても、それは礼拝の場であり祈りの家です。また毎週の主日礼拝で学び知ることは、私たちキリスト信仰者の生活は、キリストの福音と祈りによって営まれているということであります。そして、祈りがなくなれば、私たちの信仰も教会も根元から枯れてしまいます。
勿論、私たちの教会は、エルサレム神殿のような賑わいはありません。でもだからと言って私たちの信仰がユダヤの人々より優れているわけではありません。あの神殿に集まっていた人々にも信仰と祈りがありました。でも彼らの祈りと信仰が、いつの間にか腐敗したのです。また私たちの信仰はまだ未熟であるがゆえに、祈りが少なく信仰の実も少ないと言わざるを得ません。
そして祈りと信仰が未熟な私たちに主イエスは教えられます。《 そこで、イエスは言われた。「神を信じなさい。はっきり言っておく。だれでもこの山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言い、少しも疑わず、自分の言うとおりになると信じるならば、そのとおりになる。 だから、言っておく。祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる。》(22節~24節)と教えて下さいます。
私たちに祈りがなくなるのは、どんな時でしょうか。それは、「この祈りは聞かれないだろうな」と心に疑いを持つときです。しかし主イエスは、祈るときには少しの疑いもなく祈りなさいと教えられます。まさに祈りは山をも動かすのです。それが祈りです。もし私たちが、心に疑いを持たずに祈るならば、豊かな信仰の実を結ぶ信仰者が、この私たちの教会に満たされていくのです。
アーメン
新約聖書 マルコによる福音書 11章12~25節
11:12 翌日、一行がベタニアを出るとき、イエスは空腹を覚えられた。11:13 そこで、葉の茂ったいちじくの木を遠くから見て、実がなってはいないかと近寄られたが、葉のほかは何もなかった。いちじくの季節ではなかったからである。11:14 イエスはその木に向かって、「今から後いつまでも、お前から実を食べる者がないように」と言われた。弟子たちはこれを聞いていた。
11:15 それから、一行はエルサレムに来た。イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いしていた人々を追い出し始め、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けをひっくり返された。11:16 また、境内を通って物を運ぶこともお許しにならなかった。11:17 そして、人々に教えて言われた。「こう書いてあるではないか。
『わたしの家は、すべての国の人の
祈りの家と呼ばれるべきである。』
ところが、あなたたちは
それを強盗の巣にしてしまった。」
11:18 祭司長たちや律法学者たちはこれを聞いて、イエスをどのようにして殺そうかと謀った。群衆が皆その教えに打たれていたので、彼らはイエスを恐れたからである。11:19 夕方になると、イエスは弟子たちと都の外に出て行かれた。
11:20 翌朝早く、一行は通りがかりに、あのいちじくの木が根元から枯れているのを見た。11:21 そこで、ペトロは思い出してイエスに言った。「先生、御覧ください。あなたが呪われたいちじくの木が、枯れています。」11:22 そこで、イエスは言われた。「神を信じなさい。11:23 はっきり言っておく。だれでもこの山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言い、少しも疑わず、自分の言うとおりになると信じるならば、そのとおりになる。11:24 だから、言っておく。祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる。11:25 また、立って祈るとき、だれかに対して何か恨みに思うことがあれば、赦してあげなさい。そうすれば、あなたがたの天の父も、あなたがたの過ちを赦してくださる。」