先週6月25日の主日礼拝で、マルコ2:23~28の箇所を学びました。そしてこの箇所の28節でイエスは《だから、人の子は安息日の主でもある。》と教えられました。この安息日は私たちが主日礼拝を守る日曜日と同じです。つまり主イエスキリストは、安息日である日曜日の主日礼拝の主であるということです。
その意味では、主イエスが安息日にユダヤの会堂に入られたのは、安息日の主として入られたはずです。またそこに集まったすべての信仰者たちは、安息日の主イエスキリストから、神の恵みと祝福をいただくために集っているはずだ、と私たちは考えます。またそれらの人々は、神の恵みと祝福を与えてくださる主に対する喜びと感謝の思いで、その心が満たされているはずです。
ところがそこには、私たちが全く想像もしなかった雰囲気が漂っていました。すなわち《イエスはまた会堂にお入りになった。そこに片手の萎えた人がいた。人々はイエスを訴えようと思って、安息日にこの人の病気をいやされるかどうか、注目していた。》とあります。つまり人々は、また安息破りがやってきた、という怒りの思いを抱いて会堂に集っていたのです。
しかもこの当時のユダヤの信仰者たちは、人が死にそうになっていても、事故に巻き込まれていても、また病気で苦しんでいる人がいても、安息日にはいかなる仕事もしてはならない、という律法を厳格に全うすべきだと考えていました。その大事な律法を、この男は破ろうとしていると人々は考え、もし少しでもそれを破るなら裁判にかけようと狙っていたのです。
しかし主イエスは、律法を破ることを奨励しているのではありません。そうではなく、神がなぜ私たちに律法を与えられのか、その本当の意味を理解するように教えておられるのです。そこで《イエスは手の萎えた人に、「真ん中に立ちなさい」と言われた。》(3節)。さてそこでこの、真ん中に立ちなさいとは、どのような意味でしょうか。
当時のユダヤの会堂は会堂の真ん中で、説教や聖書朗読が行われていました。また会堂の真ん中に街の有力者や金持ちたちが座っていました。なぜなら会堂の真ん中が最も神の恵みと祝福に近いと思っていたからです。だから貧しい人や、重い病気の人、体の不自由な人は、いつも会堂の隅に追いやられ、神の恵みと祝福から引き離されていました。それが当たり前のことでした。
しかし主イエスは、そのような一人の人に向かって、会堂の真ん中に立ちなさいと言われます。あなたは、そんなに神の恵みから遠くにいてはならない。神の愛から引き離されてはいけない。神の祝福に最も近いところに立ちなさいと主は言われます。また人々から謂われ無き差別を受けて、身体だけではなく、信仰までも萎えてはいけないと、主は言われるのです。
しかし萎えていたのは、この人だけではありませんでした。もっと多くの人々が萎えていたのです。それはイエスを訴えようと会堂に集まっていた人々の、心と信仰が萎えていたのです。彼らは安息日に仕事をしないことに固執していました。安息日に何もしなければそれで完璧だと考えていました。しかしその信仰は間違っています。
主は《安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。》(2章27節)と教えられました。しかし人々はまさに、安息日のために人はいる、と考えていたのです。でもそれは間違った律法理解であり、その信仰は麻痺していて、その心は萎えているのです。でも人々は自分の信仰が萎え、心が萎えていることに気付いていません。
その心のなえた人々に向かって主イエスは語られます。《そして人々にこう言われた。「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。」彼らは黙っていた。》(4節)のです。でもなぜ彼らは黙っていたのでしょう。それはもしかしたら、イエスの言う通りだと思いつつ人の目を気にして黙っていたのかも知れません。また、たとえそうであっても安息日の律法は厳格にを守られるべきだと思って黙っていたのかも知れません。あるいは、激しい憤りによって怒りに震えながら黙ってイエスを睨み続けていたのかも知れません。
でもそのような人々の姿を見て、主は非常に悲しみ、心を痛めておられるのであります。《そこで、イエスは怒って人々を見回し、彼らのかたくなな心を悲しみながら、その人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。伸ばすと、手は元どおりになった。》(5節)。
そしてこの片手のなえた人に、手を伸ばしなさい、と言われたのは、身体が不自由であることによって、神の愛から遠いところに座っているのではなく、神の恵みと祝福に一番、近いところに立ち、その、なえた心を伸ばして、正しい信仰に立ちなさいと言われるのです。
さらに、会堂に集っていた、心のなえた人々にも語りかけます。あなたの、なえた心を伸ばしなさい。なえた心を伸ばして、私の言葉に聴き、信仰を取り戻しなさいと主は言われます。そして、主の言葉に聴き従って、なえた心を伸ばすならば、あなた方の信仰は、元どおりになるということを、彼らにまた私たちキリスト信仰者に証しされるのです。
しかも、信仰と心が萎えるのは、私たちが気付かないうちに起こっている出来事です。なぜなら、私たちの信仰は決して完全ではないし、いつも不完全さと罪のうちに閉じ込められる危険性を持っているからです。だからこそ主イエスは、私たちにあなたの、なえた心を伸ばしなさい。なえた心の手を伸ばして、神の恵みと祝福を受け取りなさいと言われるのです。
そしてこの主のみ言葉を信じて、信仰の手を伸ばす多くの人々があったことが10節に記されています。《イエスが多くの病人をいやされたので、病気に悩む人たちが皆、イエスに触れようとして、そばに押し寄せたからであった。》とあります。多くの人々が、なえた信仰とその心を主に向かって伸ばしました。
これらの人々と同じように、私たちもキリスト信仰が麻痺しないように、心がかたくなになって、萎えることの無いように、絶えず心を伸ばして、神の恵みと祝福を受け取るために、主日の礼拝に集いたいと思います。
アーメン
新約聖書 マルコによる福音書 3章1~12節
3:1 イエスはまた会堂にお入りになった。そこに片手の萎えた人がいた。3:2 人々はイエスを訴えようと思って、安息日にこの人の病気をいやされるかどうか、注目していた。3:3 イエスは手の萎えた人に、「真ん中に立ちなさい」と言われた。3:4 そして人々にこう言われた。「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。」彼らは黙っていた。3:5 そこで、イエスは怒って人々を見回し、彼らのかたくなな心を悲しみながら、その人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。伸ばすと、手は元どおりになった。3:6 ファリサイ派の人々は出て行き、早速、ヘロデ派の人々と一緒に、どのようにしてイエスを殺そうかと相談し始めた。
3:7 イエスは弟子たちと共に湖の方へ立ち去られた。ガリラヤから来たおびただしい群衆が従った。また、ユダヤ、3:8 エルサレム、イドマヤ、ヨルダン川の向こう側、ティルスやシドンの辺りからもおびただしい群衆が、イエスのしておられることを残らず聞いて、そばに集まって来た。3:9 そこで、イエスは弟子たちに小舟を用意してほしいと言われた。群衆に押しつぶされないためである。3:10 イエスが多くの病人をいやされたので、病気に悩む人たちが皆、イエスに触れようとして、そばに押し寄せたからであった。3:11 汚れた霊どもは、イエスを見るとひれ伏して、「あなたは神の子だ」と叫んだ。3:12 イエスは、自分のことを言いふらさないようにと霊どもを厳しく戒められた。