ここ一ヶ月以上も前から、本州や九州を中心に大雨による水害や土砂崩れなどの被害が起きています。そしてこれほど長い間、雨が続くと手の施しようがなく、自然の猛威の前に成す術がありません。また北海道では毎年、冬の寒さや吹雪などの自然の猛威には戦う術もなく、ただ吹雪が過ぎ去るのを待つだけということをいつも経験します。
さてそこで私たちキリスト信仰者の日常生活や信仰生活は、この自然現象と無縁ではなく、むしろ私たちの信仰は自然の営みとともにあると言っても過言ではありません。信仰は、ともすると心の問題であり、現実生活や自然現象とは無縁であると考えがちです。しかし主イエスは本日の箇所から、そうではないと、問いかけてきます。
主イエスは弟子たちに、また私たちに問いかけます。《その日の夕方になって、イエスは、「向こう岸に渡ろう」と弟子たちに言われた。そこで、弟子たちは群衆を後に残し、イエスを舟に乗せたまま漕ぎ出した。ほかの舟も一緒であった。》(35節~36節)とあります。つまり主イエスは、夕闇に向かって舟を漕ぎ出せ、と言います。
しかし夜に向かって舟を漕ぎ出すには、危険が伴いますので舟を出すかどうかには、勘と経験が必要です。弟子たちは主から、舟を出すように言われたとき、特に反対することもなく漕ぎ出しています。それは危険と不安と伴うが主イエスの言葉を信じて夜の湖に出て行ったように思われます。しかし弟子たちの約半数は地元の漁師であり、子供のころからこの湖で漁をしていた者たちでした。
ということは、彼らには、この気象条件であれば舟を出しても大丈夫だという確信があったのです。つまり彼らには地元の漁師が培った勘と経験があり、彼らは主の言葉を信じて従ったのではなく、自分の勘と経験で船出したのです。つまりこの湖のことについては自分達のほうが良く知っていると自負していました。それは主の御言葉より、自分の価値観や経験を優先させた瞬間でもありました。
しかしこの勘と経験が絶対ではないことを思い知らされる出来事が起こります。《激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水浸しになるほどであった。》(37節)。でも彼らはここでもなお、自分たちの判断で行動します。彼らは必死で舟に溜まった水をかき出します。それが舟の沈没を防ぐ唯一の方法だという判断があったからです。だから彼らはそこでは主イエスの存在は無きに等しいものでした。彼らの信仰は、自然の猛威の前に吹き飛んだ(無くなったとは言いませんが)のです。
でも弟子たちは主イエスが一緒であることに気付きます。しかし主は弟子たちの仕事を手伝っていません。《イエスは艫の方で枕をして眠っておられた。》(38節)のです。そこで《弟子たちはイエスを起こして、「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と言った。》(38節)。しかもこの[言った]という言葉は、[怒鳴った]という意味の言葉が使われているそうです。
つまり弟子たちは主イエスの信仰が吹っ飛んだだけでなく、イエスに向かって「舟が沈む。寝てないで手伝え」と怒鳴ったのです。確かに自然の猛威の前に、気が動転した弟子たちの気持ちはよく分かります。けれどもこれは同じ舟のなかに、自然の猛威に気が動転して信仰が吹き飛んだ弟子たちと、信仰によって枕して眠っている主イエス、という全く違った姿を持つ者たちがいたことを意味します。
でも主イエスは何故、眠ることができたのでしょう。それは自然のすべての営みで神の支配の外にあるものはない、という父なる神への絶対的な信仰がありました。つまり、いつでも・どこでも・どんな時にも、神は我と共にあり、という信仰が主イエスにあったのです。そして弟子たちはいつでも・どこでも・どんな時にも、主は私たちと共にあり、という信仰が吹き飛んでいたのです。
また、すべての自然の営みは、父なる神の御手にあり、自然の猛威も神の支配のうちにある。またどんな時でも、神は私たちと一緒であるという信仰を弟子たちに教えるために《イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、「黙れ。静まれ」と言われた。すると、風はやみ、すっかり凪になった。イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」》(39節~40節)と言われたのです。
さてそこで、いつでも・どこでも・どんな時にも、主は私たちと共にあり、という信仰について、私たちは一つの御言葉に注目したいと思います。それは36節にある《ほかの舟も一緒であった。》という言葉です。私たちが今日の箇所を読んで、主イエスが舟を出せと言われてそれに従って舟を出したのは、弟子たちの舟の一艘だけだと思っていなかったでしょうか。
しかしそうではありません。主イエスが、夕闇に向かって船出せよ、との御言葉を信じて漕ぎ出した何艘かの舟があったのです。勿論、一体、何艘の舟が一緒に出たのか、またその舟に誰が乗っていたのか、それについては何も記されていませんので、詳しいことは分かりません。でも弟子たち以外に主の御言葉に従って船出した、信仰者の群れがあったのであります。
しかもそれらの舟は、弟子たちの舟と同じように、波に揉まれ水浸しになりました。舟に乗った信仰者たちは必死になって水をかき出しました。でも主イエスは一緒に乗っていません。だから弟子たちのように「舟が沈む。手伝え」と怒鳴ることもできません。でも主イエスはすぐ傍におられました。そしてその人々には、私たちの舟も主と共に、ありという信仰によって波と風に向き合っていたのです。
それらの舟に乗った人たちは、すぐ傍にいる主イエスへの信仰によって舟を漕ぎ出しました。つまり、いつでも・どんな時でも、私たちの舟も主と共に、ありという信仰があったのです。さてそこで、この舟に乗っていたのは一体、誰なのでしょうか。この主の御言葉を信じて、この世という荒波に向かって舟を漕ぎ出したのは、私たちキリスト信仰者であり、その舟とはキリストの教会です。
つまりキリスト教会という舟に乗っているのは、私たちキリスト信仰者です。私たちの教会という舟には、主イエスキリストは目に見える姿ではおられません。しかし主イエスは信仰によって、いつでも・どこでも・どんな時でも、私たちと一緒におられ、私たちの舟も主と共に、あります。これは信仰によって知ることができる、揺るぎのない神の事実なのであります。
そして、主の御言葉を信じて、私たちの舟も主と共に、との信仰によって、揺るぐことなく主なる神を仰ぎ見つつ、この世の荒波に向かって教会という舟を漕ぎ続けている。それが、今日この教会に集められた私たちキリスト信仰者なのであることを確認したいと思います。
アーメン
新約聖書 マルコによる福音書 4章35~41節
4:35 その日の夕方になって、イエスは、「向こう岸に渡ろう」と弟子たちに言われた。4:36 そこで、弟子たちは群衆を後に残し、イエスを舟に乗せたまま漕ぎ出した。ほかの舟も一緒であった。4:37 激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水浸しになるほどであった。4:38 しかし、イエスは艫の方で枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして、「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と言った。4:39 イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、「黙れ。静まれ」と言われた。すると、風はやみ、すっかり凪になった。4:40 イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」4:41 弟子たちは非常に恐れて、「いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか」と互いに言った。