5月と6月に洗礼式が行われました。そして洗礼を行うためには洗礼準備会という勉強会が行われます。その勉強会では、「モーセの十戒」「使徒信条」「主の祈り」「洗礼と聖餐」などについて学びます。これらの事柄は、私たちの信仰理解の中心的な事柄であって、これらの理解が正確になされないと、自分勝手な信仰を作り出してしまう危険があると言っても過言ではありません。
さてこの学びのなかのモーセの十戒に、安息日に関する戒めがあります。それは例えば出エジプト記20章8節~10節に《安息日を心に留め、これを聖別せよ。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。》と書かれています。
これは、主なる神が休まれたので、あなた方も仕事を休みなさいということです。そしてすべて主を信じる信仰者が、主が休まれたことを覚えて、自分たちも仕事を休んでゆっくりしてよい、ということは、一応、理に適っています。でもそれだけだったら、十戒の一つにするほどのことはないように思います。それだけではなく、もっと大事な意味があると考えられます。
また、神が休んだことを覚えて人が仕事を休むことの理由について、モーセの十戒ではさらに次のように語っています。《六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである。》(出エジプト記20章11節)とあります。
つまり安息日に休むのは、神が天地を創造されてすべての働きを終えて、7日目を主の安息日とし、この日を祝福し聖別からだというわけです。そしてすべての信仰者が、主の安息日に休むのは、自分たちが神の戒めである安息日に関する律法を守ったことの満足を得るためでもなく、神と自分との一体感を味わうためでもありません。
そうではなく、主が安息日を祝福して休まれたので、ユダヤ人たちを始め、私たちキリスト信仰者もこの神の祝福を味わうために休むのであります。つまり安息日は休むことに意味があるのではなく、神の祝福を味わうことが目的であると言えます。ですから安息日は、神の祝福を味わう日であり、神から祝福をいただく日。それが主の安息日なのであります。
さらに神の天地創造について創世記1章31節に《 神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。夕べがあり、朝があった。第六の日である。》とあり、さらに創世記2章1節~3節には《 天地万物は完成された。第七の日に、神は御自分の仕事を完成され、第七の日に、神は御自分の仕事を離れ、安息なさった。この日に神はすべての創造の仕事を離れ、安息なさったので、第七の日を神は祝福し、聖別された。》と書かれています。
ここで私たちが特に注目するのは、神の創造の働きは6日間だが、仕事が完成し神が仕事から離れたのは7日目だと書かれていることです。つまり安息日は、主が働いた6日間と切り離されて存在するのではなく、6日間の仕事の完成日が7日目であり、それが主の安息日であるのです。ということは主が祝福したのは、7日目だけではなく、6日間とその働きも祝福されたということなのです。ですから安息日は6日間に亘(わた)る私たちの働きを祝福していただく日。それが7日目の安息日の日なのです。
しかしここに、休むことにこだわり、仕事をしないことにこだわり続ける者たちがいたことが、本日の箇所に書かれています。つまり《ある安息日に、イエスが麦畑を通って行かれると、弟子たちは歩きながら麦の穂を摘み始めた。ファリサイ派の人々がイエスに、「御覧なさい。なぜ、彼らは安息日にしてはならないことをするのか」と言った。》(23節~24節)とあります。
しかもファリサイ派の者たちがこれを主張する根拠は、さきほど引用した御言だけでなく、さらにレビ記23章3節の言葉もその根拠にあったと考えられます。つまり次のように記されている言葉です。《 六日の間仕事をする。七日目は最も厳かな安息日であり、聖なる集会の日である。あなたたちはいかなる仕事もしてはならない。どこに住もうとも、これは主のための安息日である。》
つまり弟子たちが、麦の穂を摘んで食べるのは仕事をすることだから律法に反していると彼らは主張するのですが、でもこのレビ記の記述によれば、安息日に仕事を休むのは、それは聖なる集会の日だからだというのです。そして安息日に仕事をしないのは、聖なる集会に出席するためなのです。
この聖なる集会は、キリスト教会では主日礼拝がそれにあたります。つまり安息日に仕事を休むのは、主日礼拝に出席するためです。ですから仕事を休んだ。しかし礼拝にも行かなかったというのでは、安息日に正しく仕事を休んだことにはなりません。仕事を休めばよいということではありません。安息日は聖なる集会の日。聖なる集会に集う日。だから、仕事を休むのです。
さてそこで主なる神は、ユダヤ人を始めすべてのキリスト信仰者に何を与えるために、聖なる集会に集え、と言われるのでしょうか。それがまさに6日の間、仕事をしたことを祝福するためであり、6日のあいだ、一人のキリスト信仰者として生きていたことへの祝福を与えるためなのです。また、今日から始まる新しい一週間の日々を生きるに必要な恵みと祝福のために集うのが、主の安息日です。
このように主の安息日とは、主なる神が私たちに祝福を与える日であり、安息日は、祝福をいただく日、であってその祝福を味わうための日なのです。さらにまた《 だから、人の子は安息日の主でもある。》(28節)と語られた、主イエスキリストの御言葉に誤りがないことが分かります。
なぜなら私たちキリスト信仰者は、人の子である主イエスキリストから、聖なる集会の日である安息の日に、祝福をいただく、からであります。
アーメン
新約聖書 マルコによる福音書 2章23~28節
2:23 ある安息日に、イエスが麦畑を通って行かれると、弟子たちは歩きながら麦の穂を摘み始めた。2:24 ファリサイ派の人々がイエスに、「御覧なさい。なぜ、彼らは安息日にしてはならないことをするのか」と言った。2:25 イエスは言われた。「ダビデが、自分も供の者たちも、食べ物がなくて空腹だったときに何をしたか、一度も読んだことがないのか。2:26 アビアタルが大祭司であったとき、ダビデは神の家に入り、祭司のほかにはだれも食べてはならない供えのパンを食べ、一緒にいた者たちにも与えたではないか。」2:27 そして更に言われた。「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。2:28 だから、人の子は安息日の主でもある。」