最近、テレビで、ある宣伝が目につきます。それは生命保険や入院保険などの宣伝です。また大手保険会社による不適切な保険金の不払いが発覚し、行政官庁から改善命令が出される事件もありました。これは現代の高齢化社会の世相を反映したものと言えます。そして高齢者でなくても、中年になると誰でも自分の身体の健康状態が気になります。
また健康で長生きをしたいというのは、人類共通の願いです。しかしその一方で、人は必ず死を迎えます。そしてこの事実は、命の与え主である父なる神が立て給うた秩序であり、誰もこの神の事実を避けて通ることはできません。そこで気になるのは、私たちの救い主イエスキリストは、人の病と死について、何を語り、何を教えているのかということです。
このような私たちの思いに答えているのが本日の福音書の箇所です。ここには危篤状態にある会堂長ヤイロの娘と、12年間も出血が止まらない重い病気に悩む一人の女性の姿が描かれています。福音書記者マルコは、まずヤイロについて記録しています。彼の娘がどのような病気なのか分かりませんが、危篤状態であり急を要する状態です。
多分、ヤイロも娘をいろいろな医者に診せたと思います。でも治りませんでした。そこで《会堂長の一人でヤイロという名の人が来て、イエスを見ると足もとにひれ伏して、しきりに願った。「わたしの幼い娘が死にそうです。どうか、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう。」》(22節~23節)とあります。
そして主イエスがこの訴えを聞いたとき《そこで、イエスはヤイロと一緒に出かけて行かれた。》(24節)のです。さてここで、私たちには少し気になることがあります。それはヤイロの話しを聞いたとき、主イエスが彼にどんな言葉を語りかけたかということです。ここには何も記されていませんが、でも子供が死にそうだと必死に訴える人に、何も言わずに、出かけて行ったとは考えにくいのです。
おそらく主イエスは、彼に慰めと励ましの御言葉を語ったと思います。死に瀕した家族を抱える者に、主イエスはどのような御言葉を語られたのでしょうか。それは36節にある《「恐れることはない。ただ信じなさい」》と語られたと思うのです。つまり主イエスは、恐れることはない、だた主を信じて、あなたの心に迫ってくる不安と恐れに押しつぶされないようにと教えられるのです。
そしてこの言葉は、病と死の不安に恐れおののく、すべての人々に大きな慰めと平安を与えるものであります。また日本の医療技術は世界のトップレベルですから、だから誰でも病気になったら医者に行くと考えます。それは正しい理解です。でもそのとき、一つの誤解に陥る危険があることに注意しなければなりません。
それは、病気は医者が治すのであって神に祈ったからといって病気が治るわけではない、という思いです。でもこれは少し違います。なぜなら医者の医療技術を支え、正しい診断と判断を与えるのは主なる神であります。つまり私たちの病気は、医者の技術とそれを支える神の業によって治るのです。だから病気に直面したときには、恐れることなく、ただ主を信じて、主に祈るのです。
つまり「病気を治すために、治療にあたる医師の技術を支え、正しい判断によって治療が行われるように」と、ただひたすらに主を信じて祈り続けなければなりません。でも信仰のない、この世の人達は、祈って病気が治るのなら医者はいらない、と言うでしょう。しかし私たちキリスト信仰者は、医者はいらない、と言ってのではありません。
また祈るというのは、何もしないでジッとしていることではありません。恐れることなくただひたすらに主を信じて祈るとき、主なる神は私たちキリスト信仰者に、大胆な判断と行動を起こす力を与えてくださいます。それが祈りです。そして大胆な祈りによって、ただ主を信じて、主イエスに近づいた者があったことを、福音書記者マルコは記録しています。
それが出血を患っていた女性です。彼女は多くの医者に診て貰ったのですが、病気は治らなかったようです。それで彼女は大胆な行動に出ました。すなわち《イエスのことを聞いて、群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスの服に触れた。「この方の服にでも触れればいやしていただける」と思ったからである。》(27節~28節)とあります。
この女性が、なぜ、主イエスの衣に触れたら癒されると考えたのか、詳しいことは分かりません。でも彼女は長い間、病気に苦しめられていましたので、そのような苦しみの中からの祈りによって、服に触れれば癒される、という大胆な判断が与えられてのではないかと思います。これが祈りによる行動であります。
そして、恐れることなく、ただ主を信じて、祈るとき、病気は勿論のこと、ありとあらゆる困難を乗り越える信仰の力となるのです。さらに、恐れることなくただひたすらに信じて祈ることは、愛すべき家族の死に直面したときにも、有効であることを、ヤイロの娘の死を通して学ぶことが出来るのであります。
主イエスがこの女性と関わっている間に、ヤイロの娘の死亡が告げられます。これを聞いたヤイロはがっくりと膝を落とし、号泣したでありましょう。そのようなとき、《 イエスはその話をそばで聞いて、「恐れることはない。ただ信じなさい」と会堂長に言われた。》(36節)のです。そして、この御言葉によって主イエスは、ヤイロの娘の命を死から引き戻しました。
しかし人は必ず死ぬものであり、恐れることない、ただ信じなさい、との御言葉は、私たちが愛する家族などの死に直面したときにも、主イエスキリストが私たちに語りかけてくる御言葉であります。そして、ただひたすらに主を信じる信仰によって、私たちは愛する者の死をも受け入れることができ、またこの御言葉によって、私たちは平安と慰めが与えられるのであります。
私たちは自分自身や愛する家族などが病や死に直面したとき、一人の信仰者としてどのように立つべきか分からなくなるのが常です。そのようなとき主は、恐れることはない、ただ信じなさい、と言われます。そしてこの御言葉は、自分の前に示された現実が困難であればあるほど、この主の御言葉の意味を深く理解し、信じることが出来るのではないでしょうか。
ですから私たちは一人のキリスト信仰者として、恐れることはない、ただ信じなさい、との主イエスの御言葉によって、すべての困難と向かい合うキリスト信仰者でありたいと願うものであります。
アーメン
新約聖書 マルコによる福音書 5章21~43節
5:21 イエスが舟に乗って再び向こう岸に渡られると、大勢の群衆がそばに集まって来た。イエスは湖のほとりにおられた。5:22 会堂長の一人でヤイロという名の人が来て、イエスを見ると足もとにひれ伏して、5:23 しきりに願った。「わたしの幼い娘が死にそうです。どうか、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう。」5:24 そこで、イエスはヤイロと一緒に出かけて行かれた。
大勢の群衆も、イエスに従い、押し迫って来た。5:25 さて、ここに十二年間も出血の止まらない女がいた。5:26 多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけであった。5:27 イエスのことを聞いて、群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスの服に触れた。5:28 「この方の服にでも触れればいやしていただける」と思ったからである。
5:29 すると、すぐ出血が全く止まって病気がいやされたことを体に感じた。5:30 イエスは、自分の内から力が出て行ったことに気づいて、群衆の中で振り返り、「わたしの服に触れたのはだれか」と言われた。5:31 そこで、弟子たちは言った。「群衆があなたに押し迫っているのがお分かりでしょう。それなのに、『だれがわたしに触れたのか』とおっしゃるのですか。」5:32 しかし、イエスは、触れた者を見つけようと、辺りを見回しておられた。5:33 女は自分の身に起こったことを知って恐ろしくなり、震えながら進み出てひれ伏し、すべてをありのまま話した。5:34 イエスは言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」
5:35 イエスがまだ話しておられるときに、会堂長の家から人々が来て言った。「お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすには及ばないでしょう。」5:36 イエスはその話をそばで聞いて、「恐れることはない。ただ信じなさい」と会堂長に言われた。5:37 そして、ペトロ、ヤコブ、またヤコブの兄弟ヨハネのほかは、だれもついて来ることをお許しにならなかった。5:38 一行は会堂長の家に着いた。イエスは人々が大声で泣きわめいて騒いでいるのを見て、5:39 家の中に入り、人々に言われた。「なぜ、泣き騒ぐのか。子供は死んだのではない。眠っているのだ。」5:40 人々はイエスをあざ笑った。しかし、イエスは皆を外に出し、子供の両親と三人の弟子だけを連れて、子供のいる所へ入って行かれた。5:41 そして、子供の手を取って、「タリタ、クム」と言われた。これは、「少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい」という意味である。5:42 少女はすぐに起き上がって、歩きだした。もう十二歳になっていたからである。それを見るや、人々は驚きのあまり我を忘れた。5:43 イエスはこのことをだれにも知らせないようにと厳しく命じ、また、食べ物を少女に与えるようにと言われた。