世の中には、有名人とか著名人などと呼ばれる人がいます。またそのように呼ばれることは、当人だけでなく、その人の身内の者や家族にとっても名誉なことでしょう。その意味では主イエスキリストがガリラヤ湖畔で福音の宣教を始めた、その当初から主イエスの評判が広がり、あの時代のイスラエルで主イエスは有名人であったと言えるかも知れません。
ですから《イエスが家に帰られると、群衆がまた集まって来て、一同は食事をする暇もないほどであった。》(20節)とあり、主イエスがいかに有名であったかが分かります。ということは、それは主イエスの身内や家族の者にとって非常に嬉しいことであり、名誉なことであったはずです。ところが本日の箇所に意外なことが記されています。
《身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。「あの男は気が変になっている」と言われていたからである。》(21節)とあり、さらに《エルサレムから下って来た律法学者たちも、「あの男はベルゼブルに取りつかれている」と言い、また、「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言っていた。》(22節)とあります。
つまり主イエスの評判は、私たちが想像するような名誉な評判ではありません。そうではなく、「あの男は気が変になっている」という評判がたち、それゆえに有名になっていたことになります。これは私たちにとっても非常に衝撃的なことです。でも何故、そんな評判が立ってしまったのでしょうか。それは主イエスの宣教活動の中身にあったと考えられます。
それでは主イエスはどんな活動をしていたのでしょうか。そのことについて《 イエスは、いろいろな病気にかかっている大勢の人たちをいやし、また、多くの悪霊を追い出して、悪霊にものを言うことをお許しにならなかった。》(マルコ1:34)とあります。つまり主イエスは、大勢の人の病を癒し、悪霊に悩む人を癒した。それが主の宣教活動だったのです。
ということは、あの男は気が変になっている、と言われた理由は、悪霊に苦しめられている人を助け、病に苦しむ人を癒したことだったのです。勿論、病を癒してもらった人は喜んだでしょう。しかし他の者たちは、イエスは悪霊を操って病気を治しているのだ、と厳しい非難の声を浴びせたのであります。
しかし人が病気になるのは、好んでそうなるわけではありません。現代においては、良い薬があり高度医療機関や優秀な医師らが治療にあたります。でも主イエスの時代はそうではありません。昔の日本社会にあったように、イスラエルにも因果応報のような考えがあったようです。つまりその人が重い病気になるのは先祖の罪や咎が、巡り巡ってその人に表れて病気になったと考えていました。
だから重い病に犯されるのは当然の報いなのです。でもそんな重い病を癒すことは、よほど大きな力でなければ不可能なことです。その大きな力を持つのは悪霊です。だからイエスは悪霊の力で病を追い出していると、人々は考えました。そして主イエスが、多くの人の病を癒したのは悪霊の力ではなく、神の聖霊の力によるものであることを、人々は信じることが出来なかったのであります。
しかし主イエスの力ある業について使徒ペトロは《イエスは、方々を巡り歩いて人々を助け、悪魔に苦しめられている人たちをすべていやされたのですが、それは、神が御一緒だったからです。》(使徒言行録10:38)と証ししています。つまり主イエスが病を癒すことができたのは、気が変になったのでもなく、悪霊の力でもありません。それは神が御一緒だからです。
さて、この、気が変になるというのは、常軌を逸している、とか、常識に外れているという意味です。つまり主イエスが病に苦しみ様々な重荷を負う人を癒すのは、人間の常識の外にある行為だと言うのです。しかし主イエスは、人々に問いかけます。心や身体に様々な病や重荷を負っている人々の重荷を軽くすることが、本当に気が変になっていることなのか。人間の常識の外にある行いなのか。
そうではなく、重い病に苦しんでいる人を見て、「お前が重い病にあるのは先祖の罪や咎のためだ」と言って、病に苦しむ人を非難することこそこそが、常軌を逸しているのであり、人の常識の外にある行いであると主イエスは言われます。つまり様々な病いや重荷に苦しむ人の姿から目を背け、あなたの先祖の過ちがあなたを苦しめている、と言い放つことこそが常軌を逸したことなのです。
主イエスは、病に苦しむ人と共にあり、すべて重荷を負う者に寄り添って、その重荷を軽くするために、働かれます。そしてその働きは悪霊の力によるのではなく、神と一緒にいる聖霊の力によるものだ、と主は言います。その主の働きの原点となる聖霊の働きを汚すことは大きな罪であることを人々に明らかにします。
主は言われます。《はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。しかし、聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。」》(28節~29節)。つまり主イエスキリストの福音とその業を見て、あの男は気が変になっている、とか、あの男はベルゼブルに取りつかれている、と言い放つ者の罪は重いと言います。
日本の社会にも、古くから因果応報という考えがあります。しかし医学が発達した現代では、あなたの先祖の過ちがあなたを苦しめている、という人はいません。けれども人の苦しみや重荷に追い討ちをかけるような残虐な思いが、私たちの心から消え去ったわけではありません。その意味では昔の日本人による因果応報の考えや、この当時のユダヤの人々を非難することは出来ないと思います。
ですから私たちキリスト信仰者も、ユダヤ人が主イエスキリストに向かって、あの男は気が変になっている、という声から、学ぶべき多くの事があることを忘れてはならないのであります。
また福音書記者マルコは、主イエスキリストが語ったキリストの福音は、我々、人間に何をもたらすかを明らかにします。すなわちキリストの福音が私たちにもたらすもの、それは病に苦しみ人生の重荷に悩む者の心から、その重荷を軽くするために、そのために福音は語られるのであり、聖霊による神の業が行われるのであります。
そしてすべてキリストの福音を信じる者は、その主の業と御言葉によって、自分の心にある重荷を軽くしていただいたことを実感することが出来るでありましょう。主イエスキリストは、私たちの、重荷を軽くするために、私たちの救い主となられたのであります。
アーメン
新約聖書 マルコによる福音書 3章20~30節
3:20 イエスが家に帰られると、群衆がまた集まって来て、一同は食事をする暇もないほどであった。3:21 身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。「あの男は気が変になっている」と言われていたからである。3:22 エルサレムから下って来た律法学者たちも、「あの男はベルゼブルに取りつかれている」と言い、また、「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言っていた。
3:23 そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、たとえを用いて語られた。「どうして、サタンがサタンを追い出せよう。3:24 国が内輪で争えば、その国は成り立たない。3:25 家が内輪で争えば、その家は成り立たない。3:26 同じように、サタンが内輪もめして争えば、立ち行かず、滅びてしまう。3:27 また、まず強い人を縛り上げなければ、だれも、その人の家に押し入って、家財道具を奪い取ることはできない。まず縛ってから、その家を略奪するものだ。3:28 はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。3:29 しかし、聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。」3:30 イエスがこう言われたのは、「彼は汚れた霊に取りつかれている」と人々が言っていたからである。