2006年8月6日日曜日

聖霊降臨後第9主日 「より正しく聞くため」





日本のクリスチャン人口は1%以下であり、極めて小さな集団です。しかしこの小さな集団でしかないキリスト教会では、その教会の責任を担う教職者の養成には、大きな力を注いでいます。また教職者の学問的レベルを支える日本のキリスト教神学は、世界のトップレベルにあると言われています。でもその一方で教職者を志願する若者たちが減っています。

しかしどの教派・教団でも、教職献身者が減っていても、その養成機関である神学校はいらないとは考えていません。でもなぜ日本のキリスト教の学問的レベルが高く、またその水準を維持するのに多くの努力を払うのでしょうか。それには、はっきりとした目的があります。それは、キリストの福音を、より正しく聞くため、であり、より正しく信じるためなのであります。

けれども世界中のすべてのキリスト教会が、主イエスキリストを、父なる神を、そして聖霊なる神を、より正しく信じ理解するために高い学問的水準を保っているわけではありません。その意味では主キリストの福音を、より正しく聞き、より正しく信じ、より正しく理解して語り伝えるために、信仰的努力を続けることは極めて大切なことなのであります。

また主イエスキリストがおられた時から、主イエスは群集から正しく理解されず、誤解を受けていたことが随所に記録されています。また主御自身も、他の人々や群集から誤解され、間違って理解されないように注意をしていました。例えばマルコ5章43節に《イエスはこのことをだれにも知らせないようにと厳しく命じ、》とあり、またマルコ8章30節には《するとイエスは、御自分のことをだれにも話さないようにと弟子たちを戒められた。》とあります。

これは、主イエスキリストは真の神であって同時に真の人、ということは人間の常識を超えたことであって、すぐには信じることの出来ないものであるとを指し示しています。また仮に、弟子たちが主イエスの存在を正しく語り伝えたとしても、それを正しく聞くことの出来ない者が、非常に多かったと考えられます。

つまり主イエスキリストは、真の神が真の人として、すべての人々の救いのために、この世に遣わされたことを、信じることは極めて困難なことなのです。私たちキリスト信仰者は、これらの神の事実を当たり前のこととして受け入れています。しかしその一方で、主イエスキリストを真の神の救い主として受け入れることの困難さを示す実例が、本日の福音書に記録されています。

《イエスはそこを去って故郷にお帰りになったが、弟子たちも従った。安息日になったので、イエスは会堂で教え始められた。多くの人々はそれを聞いて、驚いて言った。「この人は、このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か。》(1節~2節)とあります。

私たちキリスト信仰者は、主イエスは真の人というより真の神、という理解を強く持っています。ですから真の神である主イエスキリストが、神の権威によって福音を語り、神の権威によって奇跡の業を行うことは不思議なことではありません。でも人間イエスの故郷であるナザレの村人はそうではありません。主イエスは自分たちと同じ村人であり、単なる一人の人間なのです。

自分たちと同じ村人が、ある日、突然、神の御子として故郷に戻り、神の権威によって病を癒し神の福音を語る者となった。それを受け入れることは出来ませんでした。それは例えば、子供のとき同じクラスにいた者が大人になって、ある日突然、世界的な著名人としてテレビなどで紹介されたとしたら、すぐには信じられないと思うのと似ているかも知れません。

でもなぜ、俄(にわ)かには信じがたいと思うのでしょうか。それは、自分なりの思い込みがあるからです。ナザレの村人も、主イエスに対して思い込みがありました。《 この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか。」このように、人々はイエスにつまずいた。》(3節)のです。

つまり村人たちは、自分たちといつも一緒に暮らしていたマリヤの息子が、神であるはずがない、そんなことはあり得ないことだ、と思い込んでいるのです。しかしこの、あり得ない、という思いが、主イエスキリストへの様々な誤解を生み、キリストの福音から遠ざけ、キリストの福音を暗くし、より正しく聞くため、の信仰的な努力を妨げる結果となっています。

私たちキリスト信仰者は、主イエスがマリヤの息子であろうが、4人兄弟の長男であろうが、それで信仰が揺らぐことはありません。しかしだからと言って、主イエスに何の思い込みもなく、またキリスト教に対しても何の思い込みも持っていないのかというとそうではありません。私たち自身ですら、主イエスに、キリスト教に、自分流の解釈と思い込みがあることに気付かねばなりません。

この自分流の理解や解釈という思い込みは、聖書を読むことが少なければ少ないほど、その度合いが強くなります。それは例えば「クリスチャンのくせに、お前はタバコを吸い、酒を飲むのか」という人があったとき、その人は間違いなく聖書を読んでいません。自分で勝手に、クリスチャンは酒やタバコをやるべきではない、と思い込んでいるのです。

聖書に、クリスチャンは酒・タバコをやるべきではない、と書かれていません。聖書には、あなた方は一人の罪人であり、あなたの罪を贖うためにキリストは十字架に架かった、と書かれているのです。またすべての神の御言葉は、聖書に書かれています。聖書以外に神の御言葉を書き記した物はありません。そして聖書に聞いて生きる者たちを、クリスチャン、すなわちキリスト信仰者というのです。

これは極端な事例ですが、しかし私たちキリスト信仰者ですら、主イエスキリストを誤解し、様々な自己流の思い込みを主イエスに押しつけていることに注意しなければなりません。今日の説教の冒頭で、日本のキリスト教神学は世界のトップレベルを保つ努力しているのは、キリストの福音を、より正しく聞くため、であることを申し上げました。それは自分流の信仰を作らないためです。

また主日礼拝での説教を始め、祈祷会・聖書研究会・家庭集会はすべて、主イエスへの思い込みを防ぎ、主の御言葉を、より正しく聞くため、です。ですから3節に、人々はイエスにつまずいた、とありますが、少なくとも私たちは、主につまずくのではなく、主を正しく信じ、主イエスから、より正しく聞く者となりたいと思います。

アーメン





新約聖書 マルコによる福音書6章1節~6a節

6:1 イエスはそこを去って故郷にお帰りになったが、弟子たちも従った。6:2 安息日になったので、イエスは会堂で教え始められた。多くの人々はそれを聞いて、驚いて言った。「この人は、このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か。6:3 この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか。」このように、人々はイエスにつまずいた。6:4 イエスは、「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである」と言われた。6:5 そこでは、ごくわずかの病人に手を置いていやされただけで、そのほかは何も奇跡を行うことがおできにならなかった。6:6 そして、人々の不信仰に驚かれた。