2006年4月2日日曜日
四旬節第5主日 「同じ根から出ている」
主イエスキリストを信じる者と信じない者との間には、互いに理解し合えない深い溝のようなものがあると思っている人たちがいるようです。しかもそれは私たちキリスト信仰者ではなく、キリストを信じない一般の人に多く見受けられるようです。つまり一般の人たちをクリスマスなどに教会に誘うと、「教会は敷居が高い」とか「教会は立派な人が行くところだ」などの答えが返ってきます。
しかし教会に足を運び続けている私たちからすると、自分は他の人たちより立派な人間だから教会に行き、キリストを信じていると思っていません。そうではなく、それは全く逆で、自分は立派な人間ではなく、神の御前に一人の罪人でしかない。キリストを信じて悔い改めてやっと救われた者になった一人の不信仰な者。だから教会に行き続けている、と考えています。
でも私たちが立派な人間でもなく、正しい信仰を持っていないとしたら、キリストを信じない人たちと同じです。そうするとキリストを信じる人と、信じない人一般のどこが違うのでしょうか。それはキリスト信仰者とは「私はキリストを信じたいと願っている」者であり、そうでない者は「私はキリストを信じたいとは願わない」と考えている人のことです。
そしてキリストを信じたいと願わない理由の一つとして、本日の福音書に興味深い記述があります。《とはいえ、議員の中にもイエスを信じる者は多かった。ただ、会堂から追放されるのを恐れ、ファリサイ派の人々をはばかって公に言い表さなかった。 彼らは、神からの誉れよりも、人間からの誉れの方を好んだのである。》(42節~43節)と書かれています。
この、神からの誉れよりも人からの誉れのほうを好むことを、日本的な表現では、世間体を気にする、と言います。特に日本の社会ではキリスト信仰者は絶対少数者ですので、キリストの福音を聞いて従う人は圧倒的に少ないのです。ですからキリストの福音を宣べ伝えても、「それはごく一部の宗教的な考えだ」と言われます。しかもこれに反論し説得性のある答えを私たちは持っていません。
そしてこのような「一般常識に反対してまで、私はキリストを信じたいとは願わない」のが、この世的で人間的な考えです。でも聖書はこれを[不信仰]と呼びます。しかもこの世の様々な要因によって多くの人々が、不信仰へと引きずり込まれています。その不信仰への誘いに反対して、「私はキリストを信じたいと願う」。これが信仰です。
さらに42節~43節によりますと、ユダヤ人の議員には主イエスを信じる者は多かったが、世間体を気にして人前でキリストを信じたいとは言わなかったということです。ということは彼らは主イエスを信じているので、彼らは信仰者です。でも世間体を気にしてキリストを信じるとは願わなかったので、彼らは不信仰者です。
ですから彼らは、信仰者にして同時に不信仰者なのです。ということは信仰と不信仰は同じ一人の人間の中に存在するものであることが分かります。つまり信仰と不信仰は、一人の人間という、同じ根から出ている、のです。そして私たちは一人の人間であり一人の罪人です。その罪人という、同じ根から信仰と不信仰という二つの枝が出ているのです。
私たちの感覚からしますと、不信仰な人と信仰の深い人は全く別の人物であると思っています。でも本当にそうでしょうか。私たちはキリスト信仰者ですが、私たちの信仰はいつも深いでしょうか。決して揺らぐことのない大木のような信仰でしょうか。そうではないはずです。この世の様々な苦難や試練や誘惑で、その信仰が自信なげに揺れ動く。それが私たちキリスト信仰者の偽らざる姿です。
つまりキリスト信仰者とは、信仰と不信仰の狭間を揺れ動く者です。しかも不信仰な私も、信仰深い私も、同じ一人の人間であり罪人です。その一人の罪人という同じ根から、信仰と不信仰は出ているのであり、私たちキリスト信仰者は、信仰者にして同時に不信仰者であることを忘れてはなりません。
しかしだからと言って、私たちの信仰がフラフラと信仰と不信仰の狭間を揺れ動いていて良いはずはありません。それで主イエスは教えられます。《わたしを信じる者が、だれも暗闇の中にとどまることのないように、わたしは光として世に来た。わたしの言葉を聞いて、それを守らない者がいても、わたしはその者を裁かない。わたしは、世を裁くためではなく、世を救うために来たからである。》(46節~47節)と語られます。
そしてここで私たちが注目するのは、主イエスの言葉を聞いて守らない者がいても、主イエスはその者を裁かないという言葉です。なぜなら、主がこの世に来られたのは、世を裁くためではなく世を救うためだからです。そこで主の言葉を聞いてもそれを守らない者とは、誰のことでしょうか。それは主の言葉を熱心に聞いて従おうとしている、私たちキリスト信仰者のことです。
つまり私たち信仰者は、主の言葉を聞いても守らないことがあると、主イエスは言います。そしてキリストの言葉を聞いて守らないのは不信仰です。しかも主の言葉を聴いているときだけキリスト信仰者であって、守らないときは信仰者でないのかというとそうではありません。信仰に熱心なときにも不信仰なときにも、私たちは神に愛された罪人であり、キリスト信仰者なのです。
このように私たちは、信仰と不信仰の狭間で生きており、信仰と不信仰の狭間で揺れ動きつつ、この世のただ中で生きています。だからこそ主は、この世を裁くためではなく救うために来た、と語られるのです。さらにこの世には、私たち以外の沢山の不信仰者がおります。世間体を気にして「キリストを信じることを願わない」一般の人、という不信仰者がこの世に沢山いるのです。
そのような不信仰なこの世の人々を、主イエスは愛されます。またそれらの人々を裁くのではなく、救うために主はこの世に来たと言います。そしてキリストを信じることを願わない一般の人も、罪人の一人です。信仰と不信仰の間で揺れ動いています。けれども、不信仰な思いと言葉と行いによって揺れ動く罪人の救いのために、主イエスキリストは十字架に架かられました。
それによって主イエスは、私の贖いの血によって永遠の命を得よ、との救いの宣言を語られるのであります。主イエスの十字架によって救われた私たちは、一人の罪人ではありますが、不信仰と信仰の狭間で揺れ動く罪人ではなく、固くキリストの信仰に立つ熱心な信仰者となることを、十字架のキリストは願っているのであります。
アーメン
新約聖書 ヨハネによる福音書 12章36b~50節
◆イエスを信じない者たち
12:36 イエスはこれらのことを話してから、立ち去って彼らから身を隠された。12:37 このように多くのしるしを彼らの目の前で行われたが、彼らはイエスを信じなかった。12:38 預言者イザヤの言葉が実現するためであった。彼はこう言っている。「主よ、だれがわたしたちの知らせを信じましたか。主の御腕は、だれに示されましたか。」12:39 彼らが信じることができなかった理由を、イザヤはまた次のように言っている。12:40 「神は彼らの目を見えなくし、/その心をかたくなにされた。こうして、彼らは目で見ることなく、/心で悟らず、立ち帰らない。わたしは彼らをいやさない。」12:41 イザヤは、イエスの栄光を見たので、このように言い、イエスについて語ったのである。12:42 とはいえ、議員の中にもイエスを信じる者は多かった。ただ、会堂から追放されるのを恐れ、ファリサイ派の人々をはばかって公に言い表さなかった。12:43 彼らは、神からの誉れよりも、人間からの誉れの方を好んだのである。
◆イエスの言葉による裁き
12:44 イエスは叫んで、こう言われた。「わたしを信じる者は、わたしを信じるのではなくて、わたしを遣わされた方を信じるのである。 12:45 わたしを見る者は、わたしを遣わされた方を見るのである。12:46 わたしを信じる者が、だれも暗闇の中にとどまることのないように、わたしは光として世に来た。12:47 わたしの言葉を聞いて、それを守らない者がいても、わたしはその者を裁かない。わたしは、世を裁くためではなく、世を救うために来たからである。12:48 わたしを拒み、わたしの言葉を受け入れない者に対しては、裁くものがある。わたしの語った言葉が、終わりの日にその者を裁く。12:49 なぜなら、わたしは自分勝手に語ったのではなく、わたしをお遣わしになった父が、わたしの言うべきこと、語るべきことをお命じになったからである。12:50 父の命令は永遠の命であることを、わたしは知っている。だから、わたしが語ることは、父がわたしに命じられたままに語っているのである。」