2006年4月9日日曜日
受難主日 「わたしかも知れない」
今日の主日は、主イエスキリストの十字架の苦難の出来事を覚える、受難主日です。そしてこの主日に与えられた福音書の御言葉は、マルコ14章1節~15章47節です。この一連の箇所を読みますと、主の十字架の出来事には、実に多くの人々、また多くの種類の人々がかかわっています。例えばイエスに敵対する者、殺そうと企てる者、その企てに乗って騒ぐ者、無関心な者、自分の意思とは関係なく巻き込まれた者、あるいは、主を信じていたが怖くなって逃げた者、イエスを裏切った者など様々です。
その意味では、主イエスを信じる人も信じない人も、関心の深い人も無関心な人も、何らかの形で関わりを持つことになる。それが主キリストの十字架の出来事であると言えます。さてそこで今日は、主の受難の出来事に、無関心な人やイエスに敵対する者は除いて、主イエスを信じていた人たち(この場合は12の弟子たち)が、この出来事とどのように向かいあったかを学んでみましょう。
その学びために選びましたのが、マルコ14章12節~21節です。ここにキリストの12弟子が登場しますが、そのなかで特に注目されるのが、イスカリオテのユダです。彼はイエスを裏切ることになるのですが、なぜ彼はそのようなことをしたのでしょうか。その原因について《十二人の中の一人で、イスカリオテと呼ばれるユダの中に、サタンが入った。》(ルカ22:3)とあります。
つまり彼が裏切り行為をしたのは、サタンの誘惑によるもので、悪いのはサタンであって彼は唆(そそのか)されただけです。ですからこれはサタンの仕業という極めて特殊なケースであって、他の11人の弟子たちや、ましてや私たちキリスト信仰者とは全く無縁の出来事だ、と言えるかも知れません。
しかし他の11人の弟子たちには、サタンが入ることもなくイエスを裏切ることもなかったのでしょうか。また私たちキリスト信仰者も、主イエスを裏切るようなことはなく、信仰をぐら付かせるサタンの誘惑に負けることはないと言い切れるでしょうか。そしてユダ以外の11人は、イエスを裏切らないのだろうか、ということについて興味深い記述があります。
《 夕方になると、イエスは十二人と一緒にそこへ行かれた。一同が席に着いて食事をしているとき、イエスは言われた。「はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人で、わたしと一緒に食事をしている者が、わたしを裏切ろうとしている。」弟子たちは心を痛めて、「まさかわたしのことでは」と代わる代わる言い始めた。》(17節~19節)と書かれています。
でもここで、弟子たちの反応に少し不可解な点があることに気付かされます。つまり主イエスから、このなかに裏切り者がいると聞かされたとき、彼らは心を痛めた、とあります。でももし主イエスから、お前たちのなかに裏切り者がいる、と言われたら、私たちはどうするでしょうか。自分に身に覚えがなければ、驚いて「それは誰ですか!」と聞くのではないでしょうか。
でも弟子たちは誰も聞きません。誰も驚きません。そうではなくて、心を痛めて「まさかわたしでは」と全員がイエスに聞いています。これは何を意味するのでしょう。それは、もしイエス様のために身に危険が迫ったら、自分は逃げるかも知れない。だからイエスを裏切るのはもしかしたら、わたしかも知れない、という思いが何となく心のなかにあったからです。
そして、まさかわたしでは、と弟子たちが代わる代わる言ったのは、彼らは、主イエスを裏切るのは、まさかわたしではあるまい、という思いと、もしかしたら、わたしかも知れない、という二つの思いのなかで困惑していたのです。ですから11人の弟子たちのなかに「わたしはイエスを裏切らない」と断言できる者は、誰もいませんでした。
さらにイエスは、「私を裏切るのは、イスカリオテのユダ。お前だ!」とは言いません。そうではなく《イエスは言われた。「十二人のうちの一人で、わたしと一緒に鉢に食べ物を浸している者がそれだ。》(20節)と言います。これを読むと私たちはこれはユダを意味していると理解します。しかしイエスは飽くまでも十二人のうちの一人だ、と言います。
それは、「今、わたしを裏切るのはユダだ。しかし私を信じるあなたがた全員が、わたしを裏切ることになる」ということを言われているのであります。そしてそれはやがて事実となります。ユダは金を貰ってイエスを裏切ります。ペトロは鶏が二回鳴く前に三回も、私はイエスを知らない、と言います。さらに主が十字架に架かられたとき、他の弟子たちは、皆、イエスを見捨てて逃げてしまいます。
これが主イエスを信じる弟子たちの姿です。これが私たちキリスト信仰者が、信仰の模範とすべき弟子たちの偽らざる姿でした。そして彼らの姿を見て、私はユダのように主イエスを裏切らないと断言できるでようか。またペトロのように、あるいは他の弟子たちのように、イエスを捨てて逃げるようなことはしない、と断言できるでしょうか。
あの弟子たちが、このなかに裏切り者がいると、言われたとき、自分はそうではないという思いと、もしかしたら、わたしかも知れない、という思いの狭間で困惑していました。それと同じように、私たちも、自分はイエスを裏切らない固い信仰に立とうという思いと、もしかしたらイエス様を裏切るのは、わたしかも知れない、という思いがいつも心のなかで、燻ぶりつづけているのであります。
つまり自分はユダほどではないが、イエスを裏切るかも知れない。ペテロほど激しくではないが、イエスを知らない、と言うかも知れないのです。さてこのように困惑している弟子たちに主イエスは言います。《人の子は、聖書に書いてあるとおりに、去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった。」》(21節)
厳しい言葉です。でもこれは私たちキリスト信仰者や他の弟子たちに言った言葉ではなく、明らかにイスカリオテのユダに向かって言った言葉です。しかし生まれなかったほうがよかった、というのは、ユダの人格を否定する言葉であり、ユダの存在を否定する言葉です。でも主イエスは、ユダに向かって「裏切りの罪のゆえに、あなたは滅びに定められる」とは言いませんでした。
さらに、14章22節以下には、主の聖餐が行われていますが、この主の聖餐にユダは与ることができたのでしょうか。普通、常識から考えると、ユダは抜かされても文句は言えません。でも主イエスはユダをはじめ12人全員に、キリストの体としてのパンと、罪の赦しとしてのブドウ酒を与えられたのであります。
つまり主イエスキリストは、あの12人の弟子たちが、また私たちキリスト信仰者が、どんなに激しくキリストを裏切っても、私たちを滅びに定めることなく、主の聖餐の列に加えて下さるのであります。そしてイエスを裏切るのはもしかしたら、わたしかも知れない、と思っている者たちが主の食卓を囲んでいる。それが主の聖餐です。
また主イエスは、何回も何回も、繰り返し繰り返し、裏切る者たちに主の聖餐を与えられます。そして主を裏切るのは、わたしかも知れない、と告白する者たちに聖餐を与える。それが聖餐の本当の意味です。なぜなら罪を告白する私たちキリスト信仰者は、主の聖餐を通して、永遠の救いが与えられるからであります。
アーメン
新約聖書 マルコによる福音書 14章12~21節
◆過越の食事をする
14:12 除酵祭の第一日、すなわち過越の小羊を屠る日、弟子たちがイエスに、「過越の食事をなさるのに、どこへ行って用意いたしましょうか」と言った。14:13 そこで、イエスは次のように言って、二人の弟子を使いに出された。「都へ行きなさい。すると、水がめを運んでいる男に出会う。その人について行きなさい。14:14 その人が入って行く家の主人にはこう言いなさい。『先生が、「弟子たちと一緒に過越の食事をするわたしの部屋はどこか」と言っています。』14:15 すると、席が整って用意のできた二階の広間を見せてくれるから、そこにわたしたちのために準備をしておきなさい。」14:16 弟子たちは出かけて都に行ってみると、イエスが言われたとおりだったので、過越の食事を準備した。14:17 夕方になると、イエスは十二人と一緒にそこへ行かれた。14:18 一同が席に着いて食事をしているとき、イエスは言われた。「はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人で、わたしと一緒に食事をしている者が、わたしを裏切ろうとしている。」14:19 弟子たちは心を痛めて、「まさかわたしのことでは」と代わる代わる言い始めた。14:20 イエスは言われた。「十二人のうちの一人で、わたしと一緒に鉢に食べ物を浸している者がそれだ。14:21 人の子は、聖書に書いてあるとおりに、去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった。」