2006年4月23日日曜日
復活後第1主日 「信じなかった者の信仰」
主キリストの教会には、カトリックやプロテスタント系の教会など多くの教派・教会があり、それぞれの違いや特徴があります。しかし最も中心的な部分は一致しています。例えば、イエスキリストは復活したという信仰においては一致しています。けれども主イエスキリストの復活の信仰は、最初からあったわけではなく、最初から確立し、一致いていたわけではありません。
ですから本日の箇所においても、人々が復活の主を信じたとの記述はありません。そうではなく逆に、信じなかった、という記述が三回も出てきます。しかも信じなかったのは、群集やイエスに敵対していた者たちではありません。それは、明らかにあのキリストの11人の弟子たちだったのです。彼らが信じなかったことについて、次のように記されています。
《しかし彼らは、イエスが生きておられること、そしてマリアがそのイエスを見たことを聞いても、信じなかった。》(11節)。《 この二人も行って残りの人たちに知らせたが、彼らは二人の言うことも信じなかった。》(13節)《その後、十一人が食事をしているとき、イエスが現れ、その不信仰とかたくなな心をおとがめになった。復活されたイエスを見た人々の言うことを、信じなかったからである。》(14節)とあります。
ということは、主を信じない者があることを知りつつ、キリストは復活したと言えます。勿論、敬虔なキリスト信仰者や固く信じる信仰者のために復活されました。しかしそれだけではありません。キリストは罪のある者、主を信じない者、復活を疑う者、心のかたくなな者たちの真ん中に立たれ、それらの人々と共に生きるために復活されたのです。このことを私たちキリスト信仰者は信じています。
このような信仰を、キリスト復活信仰と言います。でも復活信仰は実は、キリストの復活を、信じなかった者の信仰、なのです。なぜなら、主イエスが復活することになったのは、主が十字架にかけられて殺されたことがその発端です。そのキリストを十字架にかけて殺した者とは、主を信じない者たちであり、この主を信じなかった者たちによって主は十字架の上で殺されました。
しかしこれら、信じないで主を十字架で殺した者たちの、罪を贖い、消し去るために、主は復活されました。この事実は、すべての福音書に詳しく書かれています。そのいづれの福音書にも、主を十字架にかけたのは、主を信じなかった者たちであったことが書かれています。そしてキリストの復活物語は、実は、主の復活を信じなかった者たちの物語なのです。
でもキリストの復活を信じなかった弟子たち、また私たちキリスト信仰者は、たとえ私たちが罪のゆえに、主を十字架にかけてしまったとしても、そのような私たちを復活の主は、決して見捨てることはない、という信仰をもっています。そしてこの信仰は、あの初代教会の信仰となったのであり、今日のすべてのキリスト教会の一致した信仰告白となりました。これが復活信仰です。これが主を、信じなかった者の信仰、なのです。すなわち「主は復活された。信じなかった私のために」という感謝と喜びが復活信仰です。
しかしだからと言って、不信仰のほうがよいとか、信じないことはいいことだ、と言っているのではありません。不信仰は復活の主が厳しく叱責するところです。そのことについて《その後、十一人が食事をしているとき、イエスが現れ、その不信仰とかたくなな心をおとがめになった。復活されたイエスを見た人々の言うことを、信じなかったからである。》(14節)とあるとおりです。
ここでは、おとがめになった、と上品な表現になっていますが、これは要するに弟子たちの不信仰を叱ったのです。しかもこの[とがめる]という言葉は、マルコ15章32節に《一緒に十字架につけられた者たちも、イエスをののしった。》とありますが、この、ののしった、という言葉と同じ意味の言葉が使われています。つまり主は弟子たちを、ののしるほどに厳しく咎めたのです。
しかし復活の主は、弟子たちや私達を見捨てたから厳しく叱ったのではありません。そうではなく、弟子たち、また私たちキリスト信仰者を、絶対に見捨てないからこそ、ののしるほどに厳しく叱った、のです。そのキリストの愛は、初代教会から今日のすべてのキリスト教会に与え続けられています。そのキリストの愛を知るとき、次に語った主の言葉の意味を理解することができると思います。
つまり《それから、イエスは言われた。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。》(15節)という言葉です。でもこれは普通に考えると変な言葉です。つまり不信仰な弟子や主の復活を信じなかった私達が宣教者になれるでしょうか。キリストの福音を伝えるためには、深い信仰がなければ宣教の使命を担うことが出来ないと思います。
しかし復活の主は、復活を信じなかった者たちに、宣教の使命を担えと命じられます。でもこれは何を意味するのだろうか、と考えるとき、私達は一つのことに気付かされます。それは、福音宣教とは、立派な信仰を持った者が、不信仰な者や神を信じない者たちに向かって、立派な信仰を語って説得し、不信仰な人を信仰者に変えることではないのです。
そうではなく、あるがままの姿を持った弟子や私達、また不信仰なままの弟子や私たちキリスト信仰者が、たとえ不信仰な私でも、復活の主は、決して私を見捨てないという信仰に堅くたっている。不信仰なままの姿で、主に愛されていることを喜んでいることを語る。これが伝道であり、福音宣教です。もし不信仰であっても、そのままの姿で復活のキリストを語ること。これが福音宣教なのです。
教会ではとかく、敬虔な交わりや正しい信仰による行いが重んじられます。勿論、それは良いことでしょう。でもそうなると不信仰な者や、主を信じなかった者は、教会の交わりから排除されてしまいます。でも主キリストは不信仰な者を教会から排除するために復活されたのではありません。
信仰の深い者たちのためには勿論のこと、不信仰な者たちのために、また問題のない人のためには勿論のこと、様々な問題をかかえて苦しむ者たちのためにも、主は復活されたのであります。またそれぞれの人たちが、あるがままの姿で交わりを持つことが赦されている。それがキリスト教会の交わりです。
そして復活の主は、このような不信仰な私達を厳しく叱りつつも、決して私を見捨てないのです。これが、主を信じなかった私達の信仰、なのであります。
アーメン
新約聖書 マルコによる福音書 16章9節~18節
◆マグダラのマリアに現れる
16:9 〔イエスは週の初めの日の朝早く、復活して、まずマグダラのマリアに御自身を現された。このマリアは、以前イエスに七つの悪霊を追い出していただいた婦人である。16:10 マリアは、イエスと一緒にいた人々が泣き悲しんでいるところへ行って、このことを知らせた。16:11 しかし彼らは、イエスが生きておられること、そしてマリアがそのイエスを見たことを聞いても、信じなかった。
◆二人の弟子に現れる
16:12 その後、彼らのうちの二人が田舎の方へ歩いて行く途中、イエスが別の姿で御自身を現された。16:13 この二人も行って残りの人たちに知らせたが、彼らは二人の言うことも信じなかった。
◆弟子たちを派遣する
16:14 その後、十一人が食事をしているとき、イエスが現れ、その不信仰とかたくなな心をおとがめになった。復活されたイエスを見た人々の言うことを、信じなかったからである。16:15 それから、イエスは言われた。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。16:16 信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける。16:17 信じる者には次のようなしるしが伴う。彼らはわたしの名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る。16:18 手で蛇をつかみ、また、毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば治る。」