先日、キリスト教関係の用品や書籍を扱っている書店に立ち寄ることがありました。時節柄、イースターに関する用品がたくさん置かれてあり、幾種類ものカードや葉書もありました。そのカードや葉書には[イースターおめでとう]とか[ハッピーイースター]などと書かれていました。日本語では、めでたいことがあったときには、おめでとう、という一つの言葉しかありませんが、英語には、おめでとうという意味を表す言葉がいくつかあるのだそうです。そのなかで主なものに二つの言葉があります。
ひとつは自分が努力をして幸いを掴んだとき(例えば、入学試験合格・就職試験合格など)には、Congratulationという言葉を使います。また自分の努力ではなく、外からやって来る幸い(新年・誕生日など)にはHappyという言葉を使います。ということは、葉書やカードにハッピーイースターと書かれているということは、イースターは、外から来る幸い、であることが分かります。
しかもこの、外から来る幸い、は私たちが全く予想もしなかった時に、想像もしなかった方法でやってくるようです。その、外から来る幸い、な出来事であるイースター。すなわち主キリストの復活について書かれているのが、本日の聖書箇所です。しかしこの箇所を読みましてもハッピーという言葉が当てはまるような記述はありません。
このキリストの復活は、三人の婦人たちが天使と思われる若者から聞かされることによって、人々の知るところとなります。でも彼女たちは主イエスが復活したかどうかを確認するために墓に行ったのではありません。なぜならこの女性たちは主の復活を信じていなかったからです。その意味では、彼女たちにとって主の復活は、予想もしない出来事であり、信じられない出来事でした。
またこの女性たちがイエスの墓に行った理由について《 安息日が終わると、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメは、イエスに油を塗りに行くために香料を買った。 そして、週の初めの日の朝ごく早く、日が出るとすぐ墓に行った。》(1節~2節)と書かれています。つまりイエスの遺体の異臭を防ぐ香料を塗るために、婦人たちは墓に行ったのです。
ここで墓のなかにいた若者に主の復活を知らされるのですが、それを聞いて、彼女たちは主の復活を喜び祝ったとは書かれていません。そうではなく、「婦人たちはひどく驚いた」とあり、さらに《婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。》(8節)と書かれています。
つまり婦人たちにとって、正気を失うほど恐ろしい出来事、それが主の復活でした。それは私たちが、今日の朝、互いに、イースターおめでとう!という軽やかな挨拶を交わしたのとは全く別次元のことがイエスの墓のそばで起こっていたことになります。しかし同じ主の復活の出来事で、なぜこんなに大きな違いが出たのでしょうか。
私たちキリスト信仰者は主の復活を信じています。だからハッピーです。でもあの婦人たちは信じていませでした。だから恐ろしかったのです。つまり信じる者にとってはハッピーな出来事、それがイースターです。でも信じない者にとっては、正気を失うほど恐ろしい出来事。それが主の復活(イースター)なのです。
さらに三人の女性たちにとって主の復活が恐ろしかったのは、主の復活を信じていなかったということだけではありません。それは自分たたちが予想もしないときに、予想もしない方法で、自分たちのところにやって来たからです。でもそもそも主なる神の御旨と御業は、すべて我々、人間の思いをはるかに超えています。また予想もしないときに、予想もしない方法で外から迫ってくるものです。
また同時に、キリストの福音も私たちの想像を超えた神の恵みとして、外から私たちの中に迫って来ます。その意味では神の業とキリストの福音は、私たちの心のなかから出てくるのではなく、神の一方的な恵みの業として、外から来る幸いな業。それが神の業です。そして私たちキリスト信仰者にとって、外から来る幸いな出来事、それがキリストの復活なのであります。
なぜなら主の復活は、それを信じるキリスト信仰者に永遠の命による救いを与えて下さいます。しかも神の救いは、私たちの努力によって勝ち取った幸いではなく、神からの悔い改めの信仰によって、外からやって来る幸いであり予期せぬ幸いです。だから主の復活すなわちイースターはハッピーなのであります。
さらに、あの婦人たちが恐れた、もう一つの理由について考えてみましょう。そのことについて《若者は言った。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。》(6節)とあります。つまり十字架で処刑された一人の人間である、ナザレ村のイエスが復活したと聞かされたのです。
これは私たちには分かり難いことですが、十字架による処刑は、人間ではなく奴隷を処刑する方法だそうです。つまり主イエスは、人間以下の者として処刑されました。その人間以下であるナザレのイエスが復活したのです。しかもこのナザレのイエスこそ、神の救い主イエスキリストです。でも婦人たちにとって、ナザレ村のイエスという一人の人間が復活したことは恐ろしいことでした。
しかしこの十字架のキリストの復活によって、私たち罪人のすべての罪が打ち砕かれ、消し去られ、それによって私たちは救われました。そしてこの神の救いの事実が、私たちキリスト信仰者に示されたのです。しかもこの神の救いは、私たちの信仰的な努力によって手に入れた幸いではなく、まさに神から一方的にもたらされた恵みであり、外から来た幸い、であります。
そして人の思いを超えて、外から来る神の幸い、としての主キリストの復活を喜び楽しむことが私たちに赦されています。このことを神に感謝しつつ、主イエスキリストの復活を共にお祝いいたしましょう。
アーメン
新約聖書 マルコによる福音書 16章1~8節
◆復活する
16:1 安息日が終わると、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメは、イエスに油を塗りに行くために香料を買った。16:2 そして、週の初めの日の朝ごく早く、日が出るとすぐ墓に行った。16:3 彼女たちは、「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」と話し合っていた。16:4 ところが、目を上げて見ると、石は既にわきへ転がしてあった。石は非常に大きかったのである。16:5 墓の中に入ると、白い長い衣を着た若者が右手に座っているのが見えたので、婦人たちはひどく驚いた。16:6 若者は言った。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。16:7 さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。」16:8 婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。