2006年4月30日日曜日
復活後第2主日 「日々の糧は主からくる」
毎週、熱心に礼拝に集われている教会員の方でも、週日の生活で祈りと御言葉のみの生活をしているという方は少ないと思います。勿論、キリスト信仰を中心に、そこにこの世的な事柄を上手に取り込んでおられると思います。でも信仰生活に、この世的なことを上手に取り込んでいると言えば聞こえはいいのですが、本当に私たちは上手に取り込んでいるのでしょうか。
この世的なことというのは、簡単に言えば、仕事をして働いて金を稼ぐことです。しかも働いて金を稼ぐことは、簡単なことではありません。その意味では、あのキリストの弟子たちも同じでした。本日の箇所をみても彼らが信仰生活の中に、この世的なことを上手に取り込んでいるとは言いがたい様子が伺えます。それは次の言葉からも分かります。
《 シモン・ペトロが、「わたしは漁に行く」と言うと、彼らは、「わたしたちも一緒に行こう」と言った。彼らは出て行って、舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった。》(3節)。一連のキリスト復活物語から言いますと、彼らは復活の主から福音宣教者として立てと命じられていました(マルコ16章15節)ので、彼らは漁に行くのではなく福音宣教に出かけているはずです。
しかし彼らは、福音宣教者である前に、一人の漁師、一人の労働者として、自分たちの日々の糧を得るために、信仰より働いて稼ぐことを優先したのであります。勿論、キリスト信仰者は働かないで、信仰だけしていればいいのだ、と言っているのではありません。そうではなく、一人の労働者として働いて稼ぐこともまた、信仰生活の営み一つであるということです。
しかも彼らは、生活のために働いたのですが、「何も取れなかった」とあります。つまり糧のために働いたのに、お金を儲けるような稼ぎにはならなかったのです。でも魚が取れなかったのは、彼らが復活の主の言うことを聞かなかったので、罰が当たったということではありません。ここには、弟子たちそして私たちキリスト信仰者が、日々の糧のために働くということへの神の示唆があるのです。
彼らは一晩中、働いたのに何も獲れなかったので、がっかりして帰ってきたと思います。ですから《既に夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。だが、弟子たちは、それがイエスだとは分からなかった。》(4節)。そのくらい彼らは疲れていたのです。でもそこで《 イエスが、「子たちよ、何か食べる物があるか」と言われると、彼らは、「ありません」と答えた。イエスは言われた。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。」そこで、網を打ってみると、魚があまり多くて、もはや網を引き上げることができなかった。》(5節~6節)のです。
そしてこの収穫の多さに驚き、そのとき初めて彼らは、岸辺に立っておられたのが復活の主であることに気づいたのでした。でもこれは主イエスの言うことを聞いたら、すぐにご利益があったということではありません。そうではなく、私たちキリスト信仰者が、この世にあって一人の労働者として、日々の糧のために働くとき、そこに主キリストが深く関わっておられることを意味しています。
私たちは、ともすれば信仰と稼ぐことを切り離して考えがちです。信仰は心の問題で、稼ぐことは現実の問題で喰うためには仕方のない、と考えがちです。しかしそうではないと本日の御言葉は語ります。私たちが福音宣教者としてまたキリスト信仰者であろうとするとき、そこに復活の主が関わって下さるがゆえに、私たちの宣教と、信仰者としての生き様は主によって祝福されるのです。
同時に私たちキリスト信仰者が、一人の労働者として日々の糧のために働くとき、復活の主はその働きを祝福して下さるのです。そして私たちの信仰者としての生き様のすべてが復活の主からくるように、この世の労働者として働いているとき、その労働の実りである、日々の糧は主からくる、のであります。つまり復活の主は、霊の糧の与え主であると同時に日々の糧の与え主なのです。
このことはさらに《 さて、陸に上がってみると、炭火がおこしてあった。その上に魚がのせてあり、パンもあった。》(9節)と《 イエスは、「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と言われた。》(12節)との御言葉、また《 イエスは来て、パンを取って弟子たちに与えられた。魚も同じようにされた。》(13節)という御言葉からも確認できます。
つまり主イエスが弟子たちにパンと魚を分けたことは、五千人の人々に5つのパンと2匹の魚を与えられた(マタイ14章13節~21節)出来事と重なりますし、また過ぎ越しの食事のとき、パンとぶどう酒で聖餐(マルコ14章22節~26節)を行われたことと重なってきます。それはまさに、霊の糧は復活の主から与えられるものであり、同時に日々の糧も主からくることを意味しています。そしてこれによって、私たちは信仰生活の中に、この世的なことを上手に取り込むキリスト信仰者となることができるのです。
さて最後に、本日の箇所で私たちには、もう一つ気になる御言葉があります。それは《シモン・ペトロが舟に乗り込んで網を陸に引き上げると、百五十三匹もの大きな魚でいっぱいであった。それほど多くとれたのに、網は破れていなかった。》(11節)という言葉です。このなかで、百五十三匹という数字が何を意味しているのか、良く分かっていませんし、沢山の仮説があります。
その仮説の一つに、この百五十三匹というのは、あの当時、イスラエルの人たちが知っていたすべての魚の種類の数ではないかということ、すべての大きな魚が網に入っても網が破れなかったというのは、すべての人々が主キリストの救いに与っても、神の救いの網は破れることなく、天の御国の救いに引き上げられることを意味しているとの理解です。
確かに、ルカによる福音書5章1節~11節には、弟子たちが一晩中、漁をしたのに魚が全くとれませんでしたが、主イエスの言われるように網を降ろしたら、網が破れそうになるほど、多くの魚が獲れたことが書かれています。そしてこのとき、主イエスは彼らに、「今から後、あなたは人間を獲る漁師になる」と言われました。それによって彼らはキリストの弟子となり、福音宣教者となったのです。
その宣教によって人々は、キリストの救いに与ることができました。このかことから考えますと、百五十三匹という数字と破れなかった網の仮説は、間違っていないかも知れません。またこのように福音宣教者として立っている弟子に向かって、「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と招いてくださいます。
それはまさに、すべての救われた人々、すべての福音宣教者、そしてすべてのキリスト信仰者に、霊的な糧を与えると同時に、日々の糧をも主が備えてくださることを意味しているのであります。その日々の糧を与えたもう主なる神を、日々の生活のなかで、語り知らせたいと思うのであります。
アーメン
新約聖書 ヨハネによる福音書 21章1~14節
21:1 その後、イエスはティベリアス湖畔で、また弟子たちに御自身を現された。その次第はこうである。21:2 シモン・ペトロ、ディディモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナ出身のナタナエル、ゼベダイの子たち、それに、ほかの二人の弟子が一緒にいた。21:3 シモン・ペトロが、「わたしは漁に行く」と言うと、彼らは、「わたしたちも一緒に行こう」と言った。彼らは出て行って、舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった。21:4 既に夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。だが、弟子たちは、それがイエスだとは分からなかった。21:5 イエスが、「子たちよ、何か食べる物があるか」と言われると、彼らは、「ありません」と答えた。21:6 イエスは言われた。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。」そこで、網を打ってみると、魚があまり多くて、もはや網を引き上げることができなかった。21:7 イエスの愛しておられたあの弟子がペトロに、「主だ」と言った。シモン・ペトロは「主だ」と聞くと、裸同然だったので、上着をまとって湖に飛び込んだ。21:8 ほかの弟子たちは魚のかかった網を引いて、舟で戻って来た。陸から二百ペキスばかりしか離れていなかったのである。21:9 さて、陸に上がってみると、炭火がおこしてあった。その上に魚がのせてあり、パンもあった。21:10 イエスが、「今とった魚を何匹か持って来なさい」と言われた。21:11 シモン・ペトロが舟に乗り込んで網を陸に引き上げると、百五十三匹もの大きな魚でいっぱいであった。それほど多くとれたのに、網は破れていなかった。21:12 イエスは、「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と言われた。弟子たちはだれも、「あなたはどなたですか」と問いただそうとはしなかった。主であることを知っていたからである。21:13 イエスは来て、パンを取って弟子たちに与えられた。魚も同じようにされた。21:14 イエスが死者の中から復活した後、弟子たちに現れたのは、これでもう三度目である。