2006年3月1日水曜日

四旬節第4主日 「仰ぎ見ることは」




[罪人]という漢字を書いたとき、その読み方には二つあります。それは[ざいにん]と[つみびと]という二つの読み方です。そしてこれは私の個人的な理解かも知れませんが、この[罪人]と書いて[ざいにん]と読むのと[つみびと]と読むのでは、その意味が全く違うと私は考えています。また[ざい人]と呼ばれる者と[つみ人]と呼ばれる者との間には共通性はなく、全く別の人々であると思います。

そこでこれら二つの読み方の違いを考えてみたいと思います。[ざい人]は一般的に用いられる言葉で、法律を犯した犯罪人のことを言います(しかしこれは古い時代に使われたもので、最近はあまり使われていません)。そして[つみ人]という言葉は、一般的に使われることは少なく、もっぱらキリスト教の世界で使われている言葉であると言えます。

さらに、[つみ人]という言葉がキリスト教の立場から使われるとき、[ざい人]とは全く別の意味になります。つまり私たちキリスト信仰者が、罪人(※以後、この字を[つみびと]と読んでください)というとき、それは神に背を向ける人のことであり、神の恵みと導きを拒否し、神に向かって不平不満を呟く者たちのことを、罪人(つみびと)と言います。でも彼らは罪人(ざいにん)ではありません。

さてそこで、この神の恵みと導きを拒否し、不平不満を漏らすとはどういうことかを具体的な事例によって見てみましょう。その事例として示されているのは、本日の旧約聖書の御言葉である民数記21章4節~9節です。その箇所の最初に《彼らはホル山を旅立ち、エドムの領土を迂回し、葦の海の道を通って行った。しかし、民は途中で耐えきれなくなって、神とモーセに逆らって言った。「なぜ、我々をエジプトから導き上ったのですか。荒れ野で死なせるためですか。パンも水もなく、こんな粗末な食物では、気力もうせてしまいます。」》(4節~5節)とあります。これが罪人です。

けれども彼らの奴隷生活は悲惨を極めたものでした。しかし彼らは、今までの悲惨さを忘れ、なかにはエジプトの生活を懐かしむ者さえいたのです。そして神に導かれたことに不平を漏らし、神に逆らったのです。このように神に向かって逆らい、背を向け、不平不満を持ち、神の恵みと導きを拒否する者を、罪人(ざいにん)ではなく罪人(つみびと)というのであります。
しかも旧約の律法によれば、神に背を向け拒否することは大きな罪であり極刑です。ですから父なる神は彼らを厳しく裁きます。《 主は炎の蛇を民に向かって送られた。蛇は民をかみ、イスラエルの民の中から多くの死者が出た。》(民数記21章6節)とあります。そしてこれによって、神に逆らう罪人たちが受ける裁きは、死刑であるということが分かります。

しかしここでイスラエルの民に、大きな変化がありました。つまり罪人の心に変化が現れたのです。このことについて《 民はモーセのもとに来て言った。「わたしたちは主とあなたを非難して、罪を犯しました。主に祈って、わたしたちから蛇を取り除いてください。」モーセは民のために主に祈った。》(民数記21章7節)とあります。つまり彼らは罪を悔い改めたのです。それが罪人です。

けれども私たちがここで注目したいのは、私たち罪人たちを死刑にすることで、神の裁きは終わりではないということです。モーセは民のために祈ったとありますが、この祈りは、民の悔い改めの祈りであり、神への執り成しの祈りです。この祈りを神は聞かれ、民の悔い改めを認めました。そして、イスラエルの民が死の裁きから逃れ、命を得る方法を教えられたのでした。

つまり《 主はモーセに言われた。「あなたは炎の蛇を造り、旗竿の先に掲げよ。蛇にかまれた者がそれを見上げれば、命を得る。」 モーセは青銅で一つの蛇を造り、旗竿の先に掲げた。蛇が人をかんでも、その人が青銅の蛇を仰ぐと、命を得た。》(民数記21章8節~9節)とあります。

このように神に向かって罪を犯した罪人であっても、その罪を悔い改め、モーセが造った青銅の蛇を仰ぎ見ることによって、その犯したすべての罪が赦され、死の裁きを免れて、命を得たのです。そして父なる神の命令に従って青銅の蛇を、仰ぎ見ることは、悔い改めることであり、神の命令に従って、青銅の蛇を、仰ぎ見ることは、信仰による命を得ることであります。

そして罪人とは、神に向かって罪を犯す者のことであり、罪人とは、自分の罪を悔い改めることが出来る者のことであり、そして罪人とは、主イエスキリストを、仰ぎ見ることによって、すべての罪が赦される者のことです。つまり主を仰ぎ見て、永遠の命を得る者。これが罪人(つみびと)です。それは、一般的に言われる罪人(ざいにん)とは、まったく別の者たちなのです。

また主イエスを、仰ぎ見ることは、罪人が命を得る信仰の業であることは、本日の福音書の箇所でも《 そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。》(14節~15節)と語られています。そしてここで言う、信じる者というのは、私たちキリスト信仰者という罪人のことなのであります。

ということは、私たちキリスト信仰者こそが、神に背を向け、心に不平と不満と呟きを持つ罪人であり、神から厳しい裁きを受けるべき者です。しかし同時に私たち罪人は、自分の罪を悔い改めることの出来る信仰を持っています。また罪人とは、悔い改めの信仰によって、また十字架のキリストの贖いによって、すべての罪が赦され、永遠の命を得る者のことを言うのです。

ですから十字架の主を、仰ぎ見ることは、悔い改めることであり、十字架の主を、仰ぎ見ることは、罪が赦されることであり、十字架の主を、仰ぎ見ることは、救いを得ることなのです。それは《 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者は裁かれない。》(16節~18節)との御言葉からも分かります。

ですから主なる神は、私たちを裁いて滅ぼすことが目的なのではなく、救うことが目的であって、私たちを救うために、敢て裁かれるのです。あのイスラエルの民が、青銅の蛇を仰ぎ見ることにより、神の裁きを免れて命を得たように、私たち罪人も十字架の主を仰ぎ見て、永遠の命へと招かれるように祈り求めたいと思います。なぜなら、十字架の主を、仰ぎ見ることは、私たちの救いだからであります。

アーメン





新約聖書 ヨハネによる福音書3章13~21節

3:13 天から降って来た者、すなわち人の子のほかには、天に上った者はだれもいない。 3:14 そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。 3:15 それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。 3:16 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。 3:17 神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。 3:18 御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。 3:19 光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。 3:20 悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。 3:21 しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために。」