2006年9月3日日曜日
聖霊降臨後第13主日 「口を証しの扉として」
先週、山の手教会の礼拝説教を通して、誤信と戦うキリストの姿について学びました。この誤信とは「誤って信じること」という意味です。主イエスは、弟子や群衆、また私たちキリスト信仰者が、より深くより強く主を信じることができるように配慮しつつ、神の福音を語ってくださいます。しかしそれと同時に、誤った信仰に陥らないように教えてくださいます。
さてそのことを念頭において、本日の箇所を見てください。そしてさらにもう一つマルコ6章34節の《イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた。》という御言葉を見てください。この二つの箇所には大きな違いがあります。このマルコ6章34節には、主イエスが教えられた言葉は何も書かれていません。
でも主イエスは、弱り果てた群衆には、彼らを勇気付け元気になるように教えられたと思います。私たちとしても、そのような神の御言葉を聞きたいと思っています。でも何も書かれていません。それに対して、本日の箇所の6節~15節までの部分は、主イエスが語られた言葉です。しかもこれはファリサイ派や律法学者を非難した言葉であり、私たちの信仰を元気にするように思えません。
彼らが弟子たちが手を洗わず汚れた手で食べることは、昔からの言い伝えに反すると言ったことに、反論をしている箇所です。しかも手をを洗うことだけでなく、彼らが守り続けている昔の人の言い伝え、それ自体が間違いだと言います。つまり《「なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのですか。」》(5節)と聞かれたことにイエスは反論します。
しかも昔の言い伝えを非難するというよりも、彼らが昔の言い伝えを、それがあたかも神の御言葉であるかのように、人々に教え、固く守るように強制したことに対して、主イエスは激しい怒りをもって彼らを非難します。なぜ、主はそれ程、激しく憤るのでしょう。それは人の言い伝えを、神の言葉であるかのように教えることによって、誤信、すなわち誤った信仰を生み出すからです。
しかも彼らが、人の言い伝えを神の言葉であるかのように語ることへの非難は、すでに預言者イザヤによって指摘されていると主は言います。《イエスは言われた。「イザヤは、あなたたちのような偽善者のことを見事に預言したものだ。彼はこう書いている。『この民は口先ではわたしを敬うが、/その心はわたしから遠く離れている。人間の戒めを教えとしておしえ、/むなしくわたしをあがめている。』》(6節~7節)。
つまり彼らは口先では自分の正しさを主張し、その実、神の言葉ではない昔の言い伝えを守る事を強制し、人々を誤信へと突き落としている。そして彼らの口は悪い教えを語る扉となっているのです。また《 更に、イエスは言われた。「あなたたちは自分の言い伝えを大事にして、よくも神の掟をないがしろにしたものである。》(9節)と語ります。
彼らは神の言葉よりも人の言い伝えを重視し、また自分たちの言い伝えを守ることは、あたかも神の掟を守ることと同じであるかのように教えているであろうことが考えられます。その意味では彼らの心にある傲慢が、彼らの口を通して悪しき教えとなって外にでます。それは彼らの口が誤信を伝える悪しき扉となっていることだと、主イエスは指摘します。
さらに彼らは、コルバン(神への供え物)という言葉を悪用して、モーゼの十戒のうちの第五の戒め『父と母と敬え』、それ自体を空しくしてしまうほどの大きな罪を犯していると、彼らを断罪します。そして最後に《 こうして、あなたたちは、受け継いだ言い伝えで神の言葉を無にしている。また、これと同じようなことをたくさん行っている。」》(13節)と厳しく叱責します。
さてそこで、もう一度、本日の箇所とマルコ6章34節との違いについて考えてみましょう。福音書記者マルコは、6章34節では群衆に教えていることを全く記録せず、今日の箇所では主の御言葉を詳しく記録しています。なぜでしょう。それは、すべてのキリスト信仰者の誤信を防ぐためです。そして何が間違った信仰であるかを、より正確に知ることによって正しい信仰が深められるからです。
しかも神の言葉でないものを、あたかも神の言葉であるかのように語ることがあってはなりません。私たちの信仰において誤信を招く最も大きな原因となるのが、自分自身の神への思い込みや、個人的な意見です。それがいつの間にか自分にとっての信仰の対象になったり、神の言葉になったり、さらには、自分で作った神の言葉で、隣人を裁くという悪しき行いへと発展することがあるのです。
そして人の言い伝えと神の言葉をより鮮明に区別することによって、私たちの信仰は深められます。そのことによって私たちの口が間違った信仰を語る扉となるのではなく、私たちの、口を証しの扉として、人々に主の平安と慰めを証しする口となるように信仰を整えなければなりません。また私たちの信仰は、真の神の御言葉によってのみ、整えられることを忘れてはなりません。
そして福音書マルコは主イエスの次のような言葉を記録します。《それから、イエスは再び群衆を呼び寄せて言われた。「皆、わたしの言うことを聞いて悟りなさい。 外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである。」》(14節~15節)とあります。
この、外から人の体に入る物というのは、食べ物のことです。つまり食べ物で私たちの体を汚すものはありません。食べ物はすべて清く、私たちに有益です。その有益な食べ物が口を通して体に入ってきます。ところが私たちの口から外に出るもの。それは人の言葉を意味していますが、この人の口から外に出る言葉が、神を汚し、人に苦しみと憎しみをもたらすことがあるのです。
特に私たちが間違った信仰を語るとき、それは隣人の人生を間違った方向へと誘うことになると、主イエスは私たちに警告します。ですから、私たちの口は、神と隣人に対して良い証しを語る扉でなければなりません。また、主なる神は私たちの、口を証しの扉として、備えて下さったのであります。その主なる神の御旨に従って、自分の口を用いたいと思います。
勿論、それは簡単なことではありません。私たちは罪人であり、その心は悪しき思いと言葉で満ちています。しかしその心の中にも、正しい信仰があります。その正しい信仰を心の中から取り出し、そして口という扉が開かれるとき、そこには主を証しする清い言葉が語られ、私たちは人々を主を信じる幸いへと招く証し人とされるのであります。
アーメン
新約聖書 マルコによる福音書 7章1~15節
7:1 ファリサイ派の人々と数人の律法学者たちが、エルサレムから来て、イエスのもとに集まった。7:2 そして、イエスの弟子たちの中に汚れた手、つまり洗わない手で食事をする者がいるのを見た。7:3 ――ファリサイ派の人々をはじめユダヤ人は皆、昔の人の言い伝えを固く守って、念入りに手を洗ってからでないと食事をせず、7:4 また、市場から帰ったときには、身を清めてからでないと食事をしない。そのほか、杯、鉢、銅の器や寝台を洗うことなど、昔から受け継いで固く守っていることがたくさんある。―― 7:5 そこで、ファリサイ派の人々と律法学者たちが尋ねた。「なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのですか。」7:6 イエスは言われた。「イザヤは、あなたたちのような偽善者のことを見事に預言したものだ。彼はこう書いている。『この民は口先ではわたしを敬うが、/その心はわたしから遠く離れている。7:7 人間の戒めを教えとしておしえ、/むなしくわたしをあがめている。』7:8 あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている。」7:9 更に、イエスは言われた。「あなたたちは自分の言い伝えを大事にして、よくも神の掟をないがしろにしたものである。7:10 モーセは、『父と母を敬え』と言い、『父または母をののしる者は死刑に処せられるべきである』とも言っている。7:11 それなのに、あなたたちは言っている。『もし、だれかが父または母に対して、「あなたに差し上げるべきものは、何でもコルバン、つまり神への供え物です」と言えば、7:12 その人はもはや父または母に対して何もしないで済むのだ』と。7:13 こうして、あなたたちは、受け継いだ言い伝えで神の言葉を無にしている。また、これと同じようなことをたくさん行っている。」
7:14 それから、イエスは再び群衆を呼び寄せて言われた。「皆、わたしの言うことを聞いて悟りなさい。7:15 外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである。」
