2006年8月27日日曜日

聖霊降臨後第12主日 「誤信との戦い」






日本は飽食の国、と言われています。確かに私たちは毎日、三回の食事を充分に満腹するほどに食べることができます。でもこの地球上には、現在でも充分に食べることの出来ない人がたくさんいます。その意味では、主イエスキリストがおられた時代のイスラエルの人々も貧く、充分に食べることが出来ませんでした。ですからこの貧しい人たちが、満腹する程に充分に食べることが出来たとしたら、それらの人たちは、どんな気分でしょうか。おそらく幸せ一杯の気分だろうと思います。

この幸せ一杯になるほどに、満腹に食べることが出来たという出来事が、主イエスによって彼らのうちに起こされました。《すべての人が食べて満腹した。》(マルコ6:42)とあります。そこでは5000人を超える人々が、今まで味わったことのない、満腹感に浸っていただろうと思います。

さてそこで本日の箇所を見てみたいと思います。《それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸のベトサイダへ先に行かせ、その間に御自分は群衆を解散させられた。》(45節)と書かれています。

ここで私たちは二つの言葉に注目したいと思います。一つは[それからすぐ]という言葉と、もう一つは[弟子たちを強いて]という言葉です。一つめの、それからすぐ、というのは、5000人の人々が満腹して、それからすぐ、にという意味です。私たちのイメージとしては、満腹した人たちは、しばらくの間、談笑し、それから主イエスに食事のお礼を言って、帰って行っただろうと想像しています。

しかしそうではありませんでした。実はここで群集は暴動に発展し兼ねない危険な動きを見せたのです。そのことについてヨハネによる福音書6章14節~15節に《そこで、人々はイエスのなさったしるしを見て、「まさにこの人こそ、世に来られる預言者である」と言った。イエスは、人々が来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、ひとりでまた山に退かれた。》と書かれています。

つまり5000人を超える人々が、一斉に、この人は神の預言者だ、この人は我々の空腹を満たし、食べて充分な食料を与えてくれた。この人こそ、自分たちの国の王に相応しい、と騒ぎ出したのです。この国とは、神の御国ではありません。あのローマ帝国に占領されている、イスラエルの国です。つまり人々は、主イエスキリストをこの世の国の王にしようと言い出したのです。

でも群集が主張する、この人は預言者だという理解も、イスラエルの国王に相応しい、という理解も間違っています。群集は明らかに主イエスキリストという存在とその使命について、間違った理解を持っています。そして誤った方向に、彼らの信仰が動いていることを、主イエスは鋭く見て取ったのであります。

本日の説教の主題に、誤信、という言葉を使いましたが、これは読んで字の如しです。こんな言葉があるのかなと思って辞書を見ると、確かに誤信という言葉があり、誤って信じること、と書かれていました。そして主イエスは、この誤信、すなわち人々は誤って信じていることと、戦っていたのです。つまり主イエスは、私たち信仰者たちの誤信と戦う方なのであります。

しかもこの戦いは、主イエスの福音宣教の働きのなかでも、大きな部分を占めています。私たちがキリストの福音を伝えるとき、「イエス様は神の御子であって、私たちの救い主です。」と証しをします。これは正しい証しです。ですから、正しくキリストを宣べ伝えたのだから、この福音はキリストを知らない人に正しく伝わると、私たちは考えています。

しかし残念ながら、必ずしもそうではありません。先ほどの、ヨハネ6:14で人々は主を神の預言者と理解しました。しかし主イエスは、この世に来られた預言者ではなく、この世に来られた救い主です。まさにここに、誤信、すなわち誤った信仰があります。しかもこれらの誤信に悪意はありません。群集は暴動を起こそうとしたのではなく、本当に主イエスを預言者と信じたのです。

けれども、この群集は、弟子たちが福音を宣べ伝えた町や村の人たちであり、弟子たちは、確かに間違いなく、主イエスは救い主であると伝えました。またそのとき、群集は確かに、主は私たちの救い主だ、と信じたのです。でもパンと魚の食事によって、また満腹したことによって、彼らの信仰は間違った方向に動いたのです。

でも主イエスキリストを、誤って信じてしまうのは、彼ら群集だけではありません。私たちキリスト信仰者も、主イエスに間違ったイメージを持ち、そのイメージが信仰になってしまう危険性があることを忘れてはなりません。

どこの教会でも、礼拝説教があり、祈祷会、聖書勉強会、家庭集会などがあります。そしてこれらの集会は、私たちの信仰を強め、深めるために行われます。しかしこれらの集会は信仰を強くするためだけに行われるのではありません。つまり信仰を強くすると同時に、誤った信仰に陥らず、誤った信仰から遠ざかるために行われるのです。つまり、誤信と戦うために集会は行われるのです。

そもそも、父なる神の愛、キリストの恵み、聖霊による霊の交わり、という神の賜物は、どれを取っても、とてつもなく大きなものであり、私たち人間がそれらの神の賜物を、短い言葉で正確に言い表すことが、殆ど出来ないのが現実です。しかしだからと言って、神の賜物は、どれも曖昧なものかというとそうではありません。

ですから神の大きな賜物を正しく信じ続けるためには、絶えず学び続ける必要があります。しかもこれらの集会による学びを怠ると、私たちの信仰に、この世的な思いが入り込んで来ます。それがあの5000人の人々が主イエスに向かって「まさにこの人こそ、世に来られる預言者である」と叫んだ、あの叫びとなるのです。

勿論、私たちは群衆たちのように、徒党を組んで誤った信仰へと雪崩れ落ちることはありません。しかし礼拝や諸集会に参加し、その集会を通して、誤信との戦い、を続け、誤信から遠ざからなければなりません。6章45節によりますと、主イエスは、人々が王にするため連れて行こうとしたため、それからすぐに、弟子たちを強いて舟に乗せたとあります。

何故、主イエスは弟子たちを、強いて舟に乗せたのか、それは弟子たちを群衆の誤った信仰理解から、遠ざけるためでした。またさらに主イエスは、御自身で群衆を解散させたとあります。これは群衆の一人ひとりが、誤った信仰に落ちていかないように配慮され、導かれたことを意味しています。これもまた誤信と戦う主イエスの姿です。

このように主イエスキリストは、あの群衆や弟子たち、また私たちを誤信から遠ざけるために、導いてくださいます。その主の導きに従いつつ、より正しく、より強く、そしてより深いキリストの信仰者としての歩みを続けて行きたいと思います。

アーメン





新約聖書 マルコによる福音書 6章45~52節

6:45 それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸のベトサイダへ先に行かせ、その間に御自分は群衆を解散させられた。6:46 群衆と別れてから、祈るために山へ行かれた。6:47 夕方になると、舟は湖の真ん中に出ていたが、イエスだけは陸地におられた。6:48 ところが、逆風のために弟子たちが漕ぎ悩んでいるのを見て、夜が明けるころ、湖の上を歩いて弟子たちのところに行き、そばを通り過ぎようとされた。6:49 弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、幽霊だと思い、大声で叫んだ。6:50 皆はイエスを見ておびえたのである。しかし、イエスはすぐ彼らと話し始めて、「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われた。6:51 イエスが舟に乗り込まれると、風は静まり、弟子たちは心の中で非常に驚いた。6:52 パンの出来事を理解せず、心が鈍くなっていたからである。