2006年9月17日日曜日

聖霊降臨後第15主日 「開かれていく」




先週の金曜日(15日)に、寿都教会と岩内集会所の礼拝奉仕に行ってきました。そしてこの二つの町に行くために、途中、いくつかの市や町を通過しました。でも、それらの途中の市や町を車で通過しただけです。さて本日の箇所に《それからまた、イエスはティルスの地方を去り、シドンを経てデカポリス地方を通り抜け、ガリラヤ湖へやって来られた。》(31節)と書かれています。

そしてこの道のりは、約150kmほどになります。でもティルス~ガリラヤまでは、直線距離で約60km程度です。にも関わらず、主イエスはその3倍近い距離を遠回りしたことになります。なぜ、そんなに遠回りしたのでしょうか。しかも途中には、いくつもの町や村があったはずです。また主イエスが通った町や村には、異邦人が住む街もありました。

主イエスはそれらの町や村を、ただ通過しただけなのでしょうか。そうではないと思います。主はそれぞれの町や村でキリストの福音を語り、多くの病人を癒されたと思います。また、あのシリア・フェニキアの女に起こったような、感動のドラマがあったはずです。さらに、異邦人のなかから、多くのキリスト信仰者が起こされて行ったであろうことは、疑う余地のないところです。

感動のドラマといえば、本日の箇所で描かれていることも、主イエスによる感動のドラマの一つであると言えるでしょう。ここに登場する耳と口の不自由な人と主イエスとの出会いは、彼の友人たちによって実現しました。《人々は耳が聞こえず舌の回らない人を連れて来て、その上に手を置いてくださるようにと願った。》(32節)とあります。

ここで彼を主イエスのところに連れて来たのは、単なる群衆ではないと考えられます。人々は主イエスに、彼の上に手を置いてほしいと願っています。手を置くというのは、神の祝福を願っているのであり、主キリストを通して神の祝福を願うのは、私たちキリスト信仰者と同じ信仰を持っている証拠です。それは単なる群衆ではなく、彼の友人たちであり、信仰の兄弟姉妹であると考えられます。

しかも彼自身もそれを願っていたと思います。そして私たちがここで注目するのは、信仰の兄弟姉妹が互いに、神の祝福を受けようと、呼び交わし合っていることです。彼は耳と口が不自由で、そのような人が主イエスと出会い、癒されることは感動的な出来事と言えます。でも主イエスの祝福を受けるのは、心や身体に重い障害や病を持っている人に限られているのではありません。

それはごく普通の信仰者や求道者にも与えられるものです。ごく普通の信仰者が互いに主の祝福を受けよう、と励まし合いつつ礼拝にと集いたいものです。私たちは、教会員同士では礼拝に来て当然と思い誘うとしませんが、そうではないと思います。さて、このように励まし合いつつ、信仰の兄弟姉妹たちは彼を主イエスのもとに連れて来ました。そして主イエスは、彼に神の奇跡を現されたのです。

《 そこで、イエスはこの人だけを群衆の中から連れ出し、指をその両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れられた。そして、天を仰いで深く息をつき、その人に向かって、「エッファタ」と言われた。これは、「開け」という意味である。すると、たちまち耳が開き、舌のもつれが解け、はっきり話すことができるようになった。》(33節~35節)とあります。

これでハッピーエンドです。しかし私たちには一つ、気になることがあります。それはこの人が、主イエスの語られたエッファタすなわち「開け」という神の御言葉が聞こえたかどうかです。34節~35節を見ると、エッファタ、と言ってから耳と口が開かれたので、主イエスの、エッファタという言葉は聞こえていないことになります。

でも本当にそうでしょうか。そうではないと思います。なぜならすべてのキリスト信仰者は、神の御言葉を聞いて信じることによって救われるからです。だから彼も、エッファタすなわち、開け、という神の言葉が聞こえていなければ救われないと思うからです。でもいつ聞こえるようになったのでしょう。それは主イエスが彼の耳と口に触り、天を仰いで深く息をついた、ときです。

この天を仰ぐというのは、主イエスが父なる神に祈っていることを表しています。また、深く息をする、という言葉の元の意味は、うめく、とか、苦しむ、という意味の言葉が使われています。つまり彼が今まで、耳と口が閉ざされていたことの、呻きと苦しみを主がそれを背負われ、この苦しみから解放されるように、天の父なる神に祈られたのです。

そのときに、彼の耳と口は、開かれていったのです。しかしその耳と口は、まだこの世に向かっては開かれていません。それはただひたすらに主イエスキリストの、エッファタ・開け、という神の御言葉を聞くためにだけ向かって彼の耳は、開かれていました。また自分の閉ざされた耳と口を開いてくれた、神を賛美する言葉を語ることに向かって、彼の口は開かれていたのです。

そして、主キリストの、エッファタ・開け、という言葉を聞いたあと、彼の耳は、信仰の兄弟姉妹や近所の人々の声を聞くために開かれたのであり、また彼の口は、信仰の兄弟姉妹や近所の人々と語り合うために、開かれていったのであります。そして私たちは、本日の箇所で、耳と口が閉ざされた人が、主イエスの力ある業によって、その苦しみから解放されたというドラマ性に注目してしまいます。

でも今日の箇所で、彼の耳と口が開かれたことだけが大事なのではありません。それだけではなく、この出来事によって、さらに彼の心が主に向かって開かれていったし、彼の目は救い主を見つめる信仰の目として、開かれていく、のです。また彼の人格も性格も価値観も人生観も、すべてが主に向かって、開かれていったことが大切なことなのです。

でも私たちは、彼のように耳と口は閉じられていません。すでに開かれています。だから今日の箇所の出来事は、自分には関係のないことと思いがちです。でもそうでしょうか。私たちは罪のゆえに、心も身体もすべてが神に向かって閉じられていたときがありました。神のことも、聖書のことも、主イエスキリストのことも、キリスト教会のことも、何も知らなかったときがありました。

しかし信仰の兄弟姉妹の証しによって、またキリストの福音を聞くことによって、私たちは神に向かって、開かれました。ですから本日の箇所には主に向かって、開かれていく、私の姿が描かれており、心も身体も主に向かって、開かれていく、私の生き様が語られているのです。

そして全く不信仰な罪人である私が、主の御言葉を聞くために、神の力ある業に向かって、開かれていく。それは耳と口が神に向かって閉ざされた人が、主の御言葉によって解放されたのと同じ神の奇跡の業が、私たち一人ひとりの上に働いていること、また今も働き続けていることを忘れてはならないのであります。

アーメン





新約聖書 マルコによる福音書 7章31~37節

7:31 それからまた、イエスはティルスの地方を去り、シドンを経てデカポリス地方を通り抜け、ガリラヤ湖へやって来られた。7:32 人々は耳が聞こえず舌の回らない人を連れて来て、その上に手を置いてくださるようにと願った。7:33 そこで、イエスはこの人だけを群衆の中から連れ出し、指をその両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れられた。7:34 そして、天を仰いで深く息をつき、その人に向かって、「エッファタ」と言われた。これは、「開け」という意味である。7:35 すると、たちまち耳が開き、舌のもつれが解け、はっきり話すことができるようになった。7:36 イエスは人々に、だれにもこのことを話してはいけない、と口止めをされた。しかし、イエスが口止めをされればされるほど、人々はかえってますます言い広めた。7:37 そして、すっかり驚いて言った。「この方のなさったことはすべて、すばらしい。耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人を話せるようにしてくださる。」