主の祈りは、主イエスキリストが私たちに教えてくださった祈りです。その祈りのなかで祈られることはすべて、私たちの信仰と日々の信仰生活に欠かすことの出来ない重要な事柄が取り上げられています。これは私たちの祈りの手本であり、模範となるものです。ですから主の祈りで祈られていることは、私たちの日々の生活においても、常に覚えなければならない大切な祈りの事柄です。
さてこの主の祈りのなかに、「われらを試みにあわせず、悪より救い出したまえ」という祈りがあります。つまり主イエスは、私たちが悪より救い出されることが、極めて重要なことだと教えます。でも私たちは悪から救い出されるということが、具体的にどのような事を意味するのか、よく分からない部分があります。
しかし悪から救い出されることは、実は、私たちの信仰生活を守るうえで非常に大切であることを認識しなければなりません。ここで言う「悪」とは、悪しき力、悪魔、悪霊、汚れた霊、などを意味しますが、それらすべての悪の力から救い出されるように祈りなさい、と主は言われます。でもなぜでしょうか。それはこれらの悪の力は、我々、人間が、直接、戦うことの出来ない相手だからです。
また戦うことが出来ないばかりか、私たちが戦っても到底、勝てる相手ではありません。例えば、悪しき力は外から来るだけではなく私たちの心の中にもあります。しかしその存在を正確に認識できないし、心のなかにあっても、それを外に追い出すことは出来ません。ましてや悪魔、悪霊、汚れた霊、となると私たちには、全くお手上げであります。
そしてこれらの悪と戦って勝利できるのは、主なる神のみであることを覚えなければなりません。しかもこれらの悪は、私たちの信仰と信仰生活に、直接、関わってきます。信仰生活や人間関係に様々な暗い影を落とすのが、「悪」と呼ばれる存在です。その悪や汚れた霊と戦うことができる唯一の方が主なる神であり主イエスキリストであります。
そして悪を退けるキリストの姿も、キリストの福音であり、私たちがいただく平安や慰めは、主キリストが悪と戦って勝利され、それらの悪を退け、遠ざけることによって与えられるキリストの恵みなのです。そして本日の箇所には、悪霊や汚れた霊は、主イエスが退けて下さるのでなければ、その苦しみから解放されることはないと必死に願う一人の母親の姿があったことが記されています。
本日の箇所によると、この母親と主イエスが出会ったのは、ティルスの地方だと書かれています。《イエスはそこを立ち去って、ティルスの地方に行かれた。ある家に入り、だれにも知られたくないと思っておられたが、人々に気づかれてしまった。》(24節)。このティルスの地方はガリラヤと境界線を接していますが、他の民族が住む異邦の地でありユダヤ人と敵対関係にありました。
その敵対者の迫害から逃れる必要があったのかも知れません。でもすぐに、気づかれてしまいます。《 汚れた霊に取りつかれた幼い娘を持つ女が、すぐにイエスのことを聞きつけ、来てその足もとにひれ伏した。女はギリシア人でシリア・フェニキアの生まれであったが、娘から悪霊を追い出してくださいと頼んだ。》(25節~26節)とあります。ここで私たちに興味があるのは、この女性の置かれた立場です。
つまりユダヤ人からすると、この母親は外国人つまり異邦人です。またユダヤ人からすると、異邦人は初めから汚れていて神の救いから初めから外れて救いに与れない民族です。しかも彼女はそれを知っていました。しかし自分の娘を、汚れた霊の苦しみから救い出すことが出来るのは、この方以外にはおられないという確信がありました。そして彼女にとっても私たちキリスト信仰者にとっても、最も大切なのは、主イエスによって悪より救い出されることです。
そして悪より救い出すキリストの恵みは、私たちとって信仰の糧であり、この信仰の糧としてのキリストの恵みは、私たちの信仰を養うパンであると言えるのであります。その、悪より救い出すパン、としてのキリストの恵みと神の力を頂きたいと、この母親は主イエスを礼拝するなかで求めて行きます。しかしイエスはそれを拒否します。
《 イエスは言われた。「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない。」》(27節)。ここでいう子供とはユダヤ人であり、子犬とは異邦人です。しかしユダヤ人を子供とするのに対して、私たちに日本人を始めとした外国人である異邦人を、犬よばわり、されるのは、面白くないことです。差別発言です。
でも主イエスはなぜ、このような表現を用いたのでしょうか。私たち異邦人は、イスラエル民族のように、旧約の神への信仰の基盤を持っていません。でも旧約の神に対する信仰を持つことは、主イエスキリストを理解し信じるために必要な信仰基盤です。またどの民族であろうと、主イエスは、旧約の民イスラエルを導いた父なる神から使わされた、真の救い主であることを信じなければなりません。
そのような信仰によって主の足元にひれ伏して礼拝しているのかどうかを、この母親に問いかけた表現が、子供たちのパンを取って子犬にやってはいけない、という表現になったのであります。つまり異邦人であろうがユダヤ人であろうが、信仰の糧としてのキリストの福音というパンを受け取るとき、その信仰のパンを受け取るに相応しい正しい信仰に立っているかを、今一度、吟味しなさいと、この女性に、また私たちキリスト信仰者に、問いかけているのであります。
その問いかけに彼女は答えます。《 ところが、女は答えて言った。「主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきます。」そこで、イエスは言われた。「それほど言うなら、よろしい。家に帰りなさい。悪霊はあなたの娘からもう出てしまった。」》(28節~29節)。
つまり彼女は、イスラエル民族が貰ったのと同じ恵みのパン、同じ福音のパン、同じ救いのパンが欲しかったのです。そしてこれらのパンだけが、悪より私たちを救い出すキリストのパンなのです。それを主イエスは、汚れた霊に取り付かれた娘の母親に確認したのであり、彼女もまた主キリストだけが、私を悪より救い出すパン、であるという信仰の告白をしたのです。
本日の説教の最初に、私たちの信仰生活にとって、最も大切なのは、悪から遠ざかり、悪より救い出されること、だと申し上げました。そして私たちを、悪より救い出すことの出来る信仰パンは、キリストの福音のみであることを、本日の箇所から学ぶことが出来るのでありります。
アーメン
新約聖書 マルコによる福音書7章24節~30節
7:24 イエスはそこを立ち去って、ティルスの地方に行かれた。ある家に入り、だれにも知られたくないと思っておられたが、人々に気づかれてしまった。7:25 汚れた霊に取りつかれた幼い娘を持つ女が、すぐにイエスのことを聞きつけ、来てその足もとにひれ伏した。7:26 女はギリシア人でシリア・フェニキアの生まれであったが、娘から悪霊を追い出してくださいと頼んだ。7:27 イエスは言われた。「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない。」7:28 ところが、女は答えて言った。「主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきます。」7:29 そこで、イエスは言われた。「それほど言うなら、よろしい。家に帰りなさい。悪霊はあなたの娘からもう出てしまった。」7:30 女が家に帰ってみると、その子は床の上に寝ており、悪霊は出てしまっていた。
