2006年8月20日日曜日
聖霊降臨後第11主日 「価なしに配られる」
先週、牧師たちの集まりである教職者会が行われました。その会合の雑談のとき、夏休みの話題が出ており、それぞれの牧師たちは、それぞれの都合に合わせて休息のときを持ったようです。それは普段の仕事を休んで休暇を取ることですので、一般の会社員と同じです。その一方で、ある若者が「俺は働いてないから、毎日、休みだ」と言っていたのを思い出しました。
つまり休息とは、働いた者への報酬として与えられるものといえます。その意味では、あのキリストの弟子たちや私たちキリスト信仰者は、福音宣教の働きや教会の奉仕を担うとき、それらの働きが終了したときに、信仰的な意味での休息のときがある、と考えられます。本日の箇所の6章30節に《さて、使徒たちはイエスのところに集まって来て、自分たちが行ったことや教えたことを残らず報告した。》とあります。
これは先週の箇所で、弟子たちが福音の宣教者として派遣されたこと(マルコ6章6節~13節)が書かれていました。その宣教の働きの結果などを皆で話し合う報告会がここで行われてたようです。そして報告を聞いた主イエスは《「さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい」と言われた。》(31節)とあります。
つまり彼らは何日間かの宣教の旅を終えて、主イエスのもとに戻って来ました。それは一つの働きの終了を意味します。それは私たちが週の始めにキリスト教会に集い、そして働く力を得て主によってこの世に派遣され、一週間の働きを終わってまたキリスト教会に集まる、というかたちと同じです。そこでは心の休息と、御言葉と聖餐によって新しい力が与えらる礼拝が行われます。
つまり礼拝は、私たちキリスト信仰者にとって、一週間の働きを終えたときの休息の場でもあるのです。ですから《そこで、一同は舟に乗って、自分たちだけで人里離れた所へ行った。》(32節)のです。でも人里離れたところで充分な休息を取ることが出来たのかというと、どうもそうではないようです。
《ところが、多くの人々は彼らが出かけて行くのを見て、それと気づき、すべての町からそこへ一斉に駆けつけ、彼らより先に着いた。》(33節)のでした。つまり休息を取るつもりで舟に乗ったのですが、思うように休息を取れなかったようです。しかし弟子たちが一つの舟に乗り、そこに主イエスが一緒におられる。そして主イエスは彼らの宣教の働きを祝福されたであろうと思います。
教会という一つの舟に乗り、一緒におられる主イエスが私たちの働きとその終了を祝福してくださる。それが信仰的な意味での真の休息なのであります。ですから、たとえ短い時間であったとしても、主の平安のうちに過ごす休息は、新しい宣教への力を得るのには、充分なものがあったと思われます。それは私たちの信仰への報酬としての休息であり、私たちに、価なく配られる、ものであります。
しかもこの信仰の報酬としての、真の休息は私たちの信仰の度合いによりません。すべて信仰によって働くキリスト信仰者に同じく与えられるものであり、何の代価も払うことなく、価なしに配られる、神の恵みなのです。さて、短くも充実した休息を与えられた主イエスと弟子たちは、群衆の待つ岸に着いたのですが、そこで群衆のある異変に気付きます。
《イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた。》(34節)のです。でもこの大勢の群衆はどこから来たのでしょか。そのことについて、33節に「すべての町から駆けつけた」とあります。このすべての町とは、地理的な意味ではありません。それは弟子たちが福音を伝えた、すべての町、という意味です。
ということは、 この群衆は弟子たちの宣教を通して、自分たちのために真の救い主が来られたことを知った人々です。でもそうであれば、彼らの顔に喜びと微笑みがあっていいはずです。しかし飼い主のいない羊のように飢え疲れていたのです。それは当時のユダヤの律法の間違った指導者たちによって、謂(いわ)れ無き差別に苦しめられ、それに耐えることしか生きる術がなかった人々です。
その抑えに抑えた苦しみが、キリストの福音によって解き放され、主イエスキリストを追い求める信仰者となったのです。その様子をご覧になった主イエスは、彼らに教えられました。そしてキリストの福音は彼ら群衆の心に、砂に水が沁み込むように受け入れられ、彼らの心は、恵みの雨が降り注ぐ大地のように潤いを取り戻していったのです。
ですから主イエスは、時を忘れて福音を語り、また病む者・苦しむ者を癒されたのです。群衆もまた時を忘れて主の御言葉に聴き入ったでありましょう。ところが、ここに時間を気にする者がいました。弟子たちです。弟子たちには悪意はありません。もし夜になって5000人を超える人々に食べ物を調達することは不可能ですから、心配するのは当然です。
でも主イエスは弟子たちに食べ物の用意をするように言いますが、無理だと答えます。そこで《イエスは言われた。「パンは幾つあるのか。見て来なさい。」弟子たちは確かめて来て、言った。「五つあります。それに魚が二匹です。」》(38節)とあります。しかしそれはあまりにも少な過ぎます。けれども主イエスは群衆を座らせるように弟子たちに命じられました。
そして《イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて、弟子たちに渡しては配らせ、二匹の魚も皆に分配された。すべての人が食べて満腹した。》(41節~42節)のです。そしてこの箇所を読むと誰でも、そんな少ない物を、どうやって増やしたのか、ということに目を向けてしまいます。
けれども私たちがここで注目することは、パンと魚が増えた奇跡のことではありません。私たちキリスト信仰者にとって、主イエスが賛美の祈りによって、人々に配ったパンと魚とは何であるのか。また弟子たちを通して、価なしに配られた、パンと魚とは何であるのか。そして主イエスキリストを信じた者たちが価なしに受け取った、パンと魚とは何なのか、それが大切なことなのです。
この、価なしに配られた、キリストのパンと魚。それは主イエスキリストを信じるすべての者たちに与えられる、神の平安であり、恵みであり、悔い改めの洗礼による救いの賜物です。その救いの賜物としての永遠の命は、信じるすべての者に、価なしに配られる、のです。
そして彼らに配られたパンと魚である、救いの賜物は、私たちにも配られているのであり、その、価なしに配られた、神の恵みと賜物を今日も感謝をもって受け取る信仰者となりましょう。
アーメン
新約聖書 マルコによる福音書 6章30~44節
6:30 さて、使徒たちはイエスのところに集まって来て、自分たちが行ったことや教えたことを残らず報告した。6:31 イエスは、「さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい」と言われた。出入りする人が多くて、食事をする暇もなかったからである。6:32 そこで、一同は舟に乗って、自分たちだけで人里離れた所へ行った。6:33 ところが、多くの人々は彼らが出かけて行くのを見て、それと気づき、すべての町からそこへ一斉に駆けつけ、彼らより先に着いた。6:34 イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた。6:35 そのうち、時もだいぶたったので、弟子たちがイエスのそばに来て言った。「ここは人里離れた所で、時間もだいぶたちました。6:36 人々を解散させてください。そうすれば、自分で周りの里や村へ、何か食べる物を買いに行くでしょう。」6:37 これに対してイエスは、「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」とお答えになった。弟子たちは、「わたしたちが二百デナリオンものパンを買って来て、みんなに食べさせるのですか」と言った。6:38 イエスは言われた。「パンは幾つあるのか。見て来なさい。」弟子たちは確かめて来て、言った。「五つあります。それに魚が二匹です。」6:39 そこで、イエスは弟子たちに、皆を組に分けて、青草の上に座らせるようにお命じになった。6:40 人々は、百人、五十人ずつまとまって腰を下ろした。6:41 イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて、弟子たちに渡しては配らせ、二匹の魚も皆に分配された。6:42 すべての人が食べて満腹した。6:43 そして、パンの屑と魚の残りを集めると、十二の籠にいっぱいになった。6:44 パンを食べた人は男が五千人であった。
