2006年8月13日日曜日
聖霊降臨後第10主日 「神と仲間たちが支える」
キリストの福音を宣べ伝えることの難しさは、私たちがいつも経験するところです。でも何故、難しいのでしょうか。どこが難しいのでしょうか。私たちはこのことを何となく分かっているようで、実はよく分かっていないように思います。そしてキリストの福音を伝えるとき、どこが難しいのか。その答えを示したのが、先週の福音書に描かれている、ナザレの村の村人たちでした。
彼らは、主イエスがマリヤの息子であって自分たちと村人で単なる一人の人間にしか過ぎない、そのイエスが真の神の救い主であるはずがない。我々と同じ村人が、神の権威によって語り、神の権威によって奇しい業を行うことは、あり得ないことだったのです。だからマルコ6章3節にあるように《人々はイエスにつまずいた。》のでした。
しかもここでナザレの人々は、主イエスの教えに躓いたのではなく、村人イエスであり主イエスキリストである、その人自身に躓いたのです。そして福音宣教の最も難しいこと、それは主イエスキリスト御自身を人々が受け入れないことです。しかもキリストの福音とは、主イエスキリスト御自身であり、福音はイエスキリストです。でも人々は主を受け入れません。だから難しいのです。
さてそこで私たちが知人・友人・家族にキリストを伝えても、受け入れようとしないとき、私たちはどうするでしょうか。何となく聖書や信仰の話しをしなくなると思います。それは自分の信仰に自信がないのと、キリストの福音への信仰的確信が持てなくなるのが、その要因と考えられます。でも本当にそうだろうか。私たちの信じるキリストの福音のどこかが間違っているのでしょうか。
そうではありません。ですから主イエスは、ナザレの村人が主に躓いたからといって、それで語ることを止めません。《それから、イエスは付近の村を巡り歩いてお教えになった。》(6b節)のです。でも主が付近の村々で教えたのは、ナザレで拒否されたので、意固地になって語っているわけではありません。それは神の御言葉に一つの間違いもないことへの確信があったからです。
しかも主イエスはここで御自身だけが教えることから、弟子たちを宣教者として派遣するという、新しい宣教の形態を展開させます。そのことについて《十二人を呼び寄せ、二人ずつ組にして遣わすことにされた。その際、汚れた霊に対する権能を授け、旅には杖一本のほか何も持たず、パンも、袋も、また帯の中に金も持たず、ただ履物は履くように、そして「下着は二枚着てはならない」と命じられた。また、こうも言われた。「どこでも、ある家に入ったら、その土地から旅立つときまで、その家にとどまりなさい。》(7節~10節)とあります。
さてここには、私たちがキリストの福音宣教者とされたときに覚えなければならない、いくつかの事柄について述べられています。まず最初に弟子たちを呼び寄せるとき[弟子たち]ではなく、[12人を呼び寄せ]とあります。これはキリスト信仰者を宣教者として立てるとき、十把一絡げではなく、一人一人を覚えてその名前を呼び、その一人一人に宣教者として派遣することを命じられます。
それは、福音の宣教者一人一人に信頼を置いて派遣されていることを意味しています。しかも派遣されるときは、たった一人だけで派遣されることはありません。そうではなく二人を組にすることによって宣教者は互いに支え合う信仰の仲間が必ず、一緒にいます。つまり福音宣教は、孤軍奮闘で行うものではないし、また孤軍奮闘で行ってはいけないのが、宣教の業なのです。
さらに福音を伝えるときには、主なるキリストが共におられ、父なる神がその業を支えてくださいます。ですから福音宣教は、神と信仰の仲間たちが支える、活動であり、一人で行ってはいけません。また主イエスは、宣教の旅に行くときは、一本の杖と履き物を持っていくだけで、お金も食べ物も余分な服も持って行く必要はないと言います。
でもこれらには、どんな意味があるのでしょうか。一本の杖は、神の権威を表します。つまり自分たちが人々の前で語り伝えるものは、神の権威に裏打ちされた、キリストの福音であって、それ以外は何も語らないし、何も持たないことを意味します。また履物をはくのは、福音を聴く者があれば、どこにでも出かけて行くという宣教者の宣教の意欲を表すものと考えられます。
たとえ受け入れない者がいても、宣教の意欲を失わない。キリストの福音を拒否する者があったとしても、意固地になって話し続けるのではない。また、私たちを遣わされた主なる神と、共に働く信仰の仲間たちによって福音は広がっていく。そして神の権威にある福音だけを、より正しく語り続けるのが、宣教者の生き様であると言えます。
しかも宣教の仲間は、キリスト信仰者だけではないと主イエスは語ります。つまり《こうも言われた。「どこでも、ある家に入ったら、その土地から旅立つときまで、その家にとどまりなさい。》とあります。これは今日的な意味から言いますと、私たちの活動を支援し、新しくキリストの福音に耳を傾ける求道者の存在があると理解できます。
すなわちキリスト教会に集う求道者、また教会の活動を理解し応援してくれる新しい求道者が必ず与えられることを意味しています。その新しい求道者もまた私たちを支えてくれる信頼すべき仲間たちです。それらの信仰の仲間や求道者という仲間たちと共に、宣教の使命をになって立つとき、そこに多くの実りがあることを、本日の御言葉は語っています。
つまり《 十二人は出かけて行って、悔い改めさせるために宣教した。そして、多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人をいやした。》とあるとおりです。また今日の御言葉には特に記されていませんが、12人の弟子と私たちキリスト信仰者たちを宣教者として遣わした父なる神と主イエスキリストは、遣わした者たちをそのまま放置されるのではありません。
主イエスキリストは、一人一人の働き人のために祈り、その一つ一つの宣教の働きを祝福してくださいます。また父なる神も、すべての宣教の業に注目し、力と実りを与えて下さるのであります。また信仰の仲間たちも一緒に祈り働きます。
そしてこれら一連の事柄から分かること、それは、福音宣教は一人で孤軍奮闘するものではなく、神と仲間たちが支える、ことによって成し得るのもであることを、本日の箇所から学ぶことが出来るのであります。
アーメン
新約聖書 マルコによる福音書 6章6b節~13節
6:6 それから、イエスは付近の村を巡り歩いてお教えになった。6:7 そして、十二人を呼び寄せ、二人ずつ組にして遣わすことにされた。その際、汚れた霊に対する権能を授け、6:8 旅には杖一本のほか何も持たず、パンも、袋も、また帯の中に金も持たず、6:9 ただ履物は履くように、そして「下着は二枚着てはならない」と命じられた。6:10 また、こうも言われた。「どこでも、ある家に入ったら、その土地から旅立つときまで、その家にとどまりなさい。6:11 しかし、あなたがたを迎え入れず、あなたがたに耳を傾けようともしない所があったら、そこを出ていくとき、彼らへの証しとして足の裏の埃を払い落としなさい。」6:12 十二人は出かけて行って、悔い改めさせるために宣教した。6:13 そして、多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人をいやした。
