主イエスキリストへの信仰は、私たちの人生観や価値観だけでなく人格や人間性そのものを変えてしまうほどの力を持っています。また信仰は弱いよりも強いほうが好ましいし、曖昧な信仰より固い信仰が良いことは明らかです。でも残念なことに、信仰は目で見たり形にして表すことはできません。ですから自分の信仰を具体的に、他者に見せることが出来ないのです。
そこで考え出されたのが、修行とか難行・苦行と呼ばれる方法を用いて表現をすることです。これはどの宗教団体にでも見られる普通の方法です。これはユダヤ教にも見られる方法です。そしてユダヤ教で行われた修行・苦行の一つに断食があります。でもこの断食による苦行は、レビ記16章29節に書かれており、神の律法に定められたものでした。
しかし父なる神が律法として定めた断食は、年に一回でした。けれども時代と共にその回数が増えていき、イエスの時代には、年に何回も行われていました。そのほかに個人的に断食する人もいました。でもそれは周りの人々に、自分の信仰の強さを見せるための、見せ掛けの断食が多かったと言われています。主イエスはこの見せ掛けの断食には批判的でした。
ですから人々から「あなたの弟子はなぜ断食をしないのか」と聞かれたとき次のように答えています。《ヨハネの弟子たちとファリサイ派の人々は、断食していた。そこで、人々はイエスのところに来て言った。「ヨハネの弟子たちとファリサイ派の弟子たちは断食しているのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか。」 イエスは言われた。「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客は断食できるだろうか。花婿が一緒にいるかぎり、断食はできない。》(18節~19節)。
ここで言う花婿とはイエスキリストのことです。つまりキリストの12人の弟子たちは、主イエスと共にいるとき、それは婚礼に招かれた客のように喜びに満たされているときであり、そのようなときに断食はしないのだ、と主は言われます。確かにそうです。また私たちキリスト信仰者も、主と共にありますので、いまは断食のときではなく、喜びのときであり、今も楽しみの時、であります。
つまり主イエスは喜びをもって、私たちにキリストの福音を語ってくださいます。そのキリストの福音を私たちもまた喜びをもって聴き、主なる神とともに神の言葉を喜び楽しむ。これが私たちキリスト信仰者の信仰表現であり、証しなのです。また自分の信仰の深さを目に見える形で表現するのは、断食ではなくなく、日々、キリストの福音を楽しんでいる姿、であると言えるのです。
でも主イエスは次のように言います。《 しかし、花婿が奪い取られる時が来る。その日には、彼らは断食することになる。》(20節)とあります。この、花婿が奪い取られる時、というのは、主イエスが十字架に掛けられて殺されるときです。でも聖書には、キリストが十字架に掛けられたとき、弟子たちは皆、逃げ去ったとありますが、断食したとは書かれていません。しかし彼らが主を捨てて逃げたとき、彼らは安心していたでしょうか。おそらく彼らは断食よりも、もっと辛い、心の断食をしていたのではないでしょうか。
それは単にイエスを裏切ったという後ろめたさ、だけではありません。彼らの心には、人はなぜキリストを十字架にかけるのか。それは人の心の奥底に潜む罪の思いによるものであることに、弟子たちは感じ取ったかも知れません。その罪を悔い改める思いを持った弟子たちは、どんな断食よりも辛い、心の断食へと追いやられたのではないでしょうか。
さらに弟子たちが経験した、罪の悔い改めによる心の断食は、私たちキリスト信仰者も経験しているのです。それは洗礼を受けたときです。でも私たちの感覚では、洗礼はキリストの救いに与ることですから嬉しいことのはずです。しかし洗礼というのは、ただ単に洗礼というのではなく、罪の悔い改めによる洗礼、です。つまり洗礼とは罪の悔い改めによって起こる出来事です。
そして私たちが悔い改めの洗礼を受けるとき、そこに罪を悔いる断食が起こるのです。ですから私たちが洗礼を受けた日は、断食の日、だったのです。しかし私たちが悔い改めの洗礼を受けたその瞬間、主なる神は私たちの罪を赦し、永遠の救いを与えて下さいます。ということは私たちの洗礼の日は、断食の日であり、また同時に、救いの日であって、それは喜びの日、なのであります。
さらに その喜びの日、楽しみの時は、神の救いと共に永遠に続くことを私たちは知っています。なぜなら主イエスは、キリストの救いを楽しむ私たちと、いつまでも一緒にいると約束してくださいます。しかも主イエスは《花婿が一緒にいるかぎり、断食はできない。》(19節)と言います。そして聖霊なる神は、主キリストが今も、いつまでも私たちと一緒であることを明らかにしております。
ということは、花婿であるキリストが私たちと一緒にいるかぎり、私たちキリスト信仰者は断食も、心の断食もしません。なぜならキリストが私たちと共にいるときは、すべてのキリスト信仰者にとって喜びの日となるのです。それは悔い改め洗礼を受けた日から、永遠に続くものです。つまりキリスト者の日々の歩みは、いつも喜びの日であり、今も楽しみの時、なのです。しかもそのような信仰は、ユダヤの人々がいまだかって経験したことのない、まったく新しいものでした。
ですからこの全く新しい救いであるキリストの福音を、旧約の律法の一部として理解してはならないし、またキリストの福音を旧約の律法の中に押し込んでならないと主イエスは語ります。そのことについて主イエスは《 だれも、織りたての布から布切れを取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。そんなことをすれば、新しい布切れが古い服を引き裂き、破れはいっそうひどくなる。また、だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、ぶどう酒は革袋を破り、ぶどう酒も革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。」》(21節~22節)と教えられます。
これによって新しいブドウ酒としてのキリストの救いは、新しい革袋であるキリストの福音に入れて、私たちキリスト信仰者を始め、すべて罪を悔い改める人々に与えられたのです。この新しいブドウ酒を飲むキリスト信仰者は、苦しみの断食の日々ではなく、主イエスとともにキリストの福音を楽しむ恵みの日々が与えられています。そして今日の日もキリストの恵みを楽しむ時とされていることに感謝しましょう。
アーメン
新約聖書 マルコによる福音書 2章18~22節
2:18 ヨハネの弟子たちとファリサイ派の人々は、断食していた。そこで、人々はイエスのところに来て言った。「ヨハネの弟子たちとファリサイ派の弟子たちは断食しているのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか。」2:19 イエスは言われた。「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客は断食できるだろうか。花婿が一緒にいるかぎり、断食はできない。2:20 しかし、花婿が奪い取られる時が来る。その日には、彼らは断食することになる。2:21 だれも、織りたての布から布切れを取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。そんなことをすれば、新しい布切れが古い服を引き裂き、破れはいっそうひどくなる。2:22 また、だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、ぶどう酒は革袋を破り、ぶどう酒も革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。」
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