2006年5月28日日曜日

復活後第6主日 「主は祈り続ける」




ヨハネによる福音書は、他の福音書(マタイ・マルコ・ルカ)にはない、様々な特徴があります。その一つにヨハネによる福音書には、[祈る]という言葉がありません。しかしだからと言って、ヨハネは祈りについて全く取り上げていないのか、というとそうではありません。また祈るという言葉を、福音書に書き記すのは相応しくないと考えているのでもありません。

ですからこのヨハネの17章に[イエスの祈り]という表題(表題は本文ではなく、ガイドラインとして付けたものです)が付いているように、17章全体が主イエスの祈りの言葉を記録したものです。でもそうなると福音書記者ヨハネは、祈るという言葉をどのような表現を用いて言い表しているのでしょうか。

それは17章1節にあります。つまり《イエスはこれらのことを話してから、天を仰いで言われた。》とありますが、この天を仰いで言われたという言葉が、ヨハネが祈りを表す言葉として用いたものです。ですからこれを、そのまま[祈った]と言い換えることができるでしょう。また9節や20節にある[お願いします]という言葉も、祈ります、と言い換えることができます。

またマタイ・マルコ・ルカには、[イエスは祈るために山に登られた]とか[イエスは一人で祈っておられた]などと書かれた箇所がありますが、何を祈り、そのような言葉で祈ったのかまで書かれてある箇所は少ないのです。それに対して、ヨハネの17章にはイエスの祈りが書かれてあり、イエスがどのような言葉で何を祈ったのかを具体的に記録しているのも、その特徴の一つかも知れません。

ヨハネ18章以下では、主イエスの十字架への歩みについて書かれていますので、間もなくイエスは弟子たちと離れなければなりません。その弟子たちの信仰について主は心をくだいています。そしてこの世に残していく弟子たちのために父なる神に、とりなしの祈りをしている。これが17章全体の内容であります。

主イエスは、弟子たちがこれからこの世とどのように関わることになるのか、そのことについて、父なる神に願いつつ執り成しておられます。そしてこの弟子たちへの執り成しの祈りは、そのまま私たちキリスト信仰者への執り成しの祈りとなるのであります。その執り成しの祈りのなかから、今日は17章12節~19節の箇所が与えられています。

そしてこの一連の箇所で《わたしは彼らと一緒にいる間、あなたが与えてくださった御名によって彼らを守りました。》(12節)とか、《聖なる父よ、わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください。》(11節)という箇所にある[守ってください]という言葉です。さらに《 わたしがお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです。》(15節)とあります。

でもなぜ、彼ら弟子たちを、また私たちキリスト信仰者を守ってくださいと、主は祈り続ける、のでしょうか。その理由について《わたしは彼らに御言葉を伝えましたが、世は彼らを憎みました。》(14節)と語っています。つまり弟子たちと私たちキリスト信仰者は、キリストの福音のゆえに、この世から憎まれるので、その憎しみから守って下さいと、主は祈り続ける、のであります。

つまりキリストの福音を信じる者は、すべてこの世から憎まれると主は言われます。なぜなら、キリストの福音もキリスト信仰者も、この世に属するものではなく、またこの世の中から生まれ出たものではないからです。それはまさに、天の御国から来るものであり、父なる神から発せられるものです。

さらにキリスト信仰者の信仰もまた、神の御国に属するものであり、父なる神から発せられるものです。そして、これらものは、この世が受け入れることが出来ないがゆえに、この世はキリストの福音とその信仰を憎むであろうことを、主は知っておられるのです。ですからキリストの教会も、この世の只中に立てられていますが、その基は神の御国にあります。また私たちキリスト信仰者は、この世の只中に生まれ育ち、この世の只中で信仰生活を営んでいます。しかし私たちの命も信仰も天の御国に属しています。

しかし私たちの命も信仰も、この世に属していないからといって、私たちは浮世離れして、世間から外れていてよいのではありません。そうではなく、信仰の基を天の御国に置きつつ、この世での歩みをしっかりと踏み締めなければなりません。そして、この世に様々な影響を与えていく、これがキリスト信仰者であり、またそれがキリストの福音なのです。

でもだからこそこの世は、キリストの福音とその信仰を憎むのであると、主イエスキリストは言われるのであります。それはキリスト教会2000年の歴史が物語るものであり、私たち自身が経験するところでもあります。でもそうであるならば、私たちキリスト信仰者をこの世から隔離して下さい、と祈ってくださるほうがよいのではないかと思います。

でも主イエスはそのように祈りません。主は《わたしを世にお遣わしになったように、わたしも彼らを世に遣わしました。彼らのために、わたしは自分自身をささげます。彼らも、真理によってささげられた者となるためです。》(18節~19節)つまりキリストの福音とその信仰者を、この世に積極的に遣わすのだと、主は祈り続けます。

それは、狼の群れに子羊を送り込むようなものです。でもこの世にキリスト信仰者を遣わすにあたって、父なる神に私たちキリスト信仰者が、この世のあらゆる悪から守ってくださいと祈り、そして、いまも祈り続けておられるのであります。でもなぜ、そんなに私たちをこの世に遣わすことにこだわるのでしょうか。それは[彼らも、真理によってささげられた者となるためだ]と言います。

そしてこの、真理によってささげられた者というのは、父なる神から守られ、主イエスによってこの世に遣わされるキリスト信仰者を意味しています。そしてこの使命に私たちキリスト信仰者一人一人を召し出して下さるように。これが主イエスキリストが父なる神に祈っていることであり、今も祈り続けておられることなのであります。

アーメン





新約聖書 ヨハネによる福音書 17章12~19節

17:12 わたしは彼らと一緒にいる間、あなたが与えてくださった御名によって彼らを守りました。わたしが保護したので、滅びの子のほかは、だれも滅びませんでした。聖書が実現するためです。17:13 しかし、今、わたしはみもとに参ります。世にいる間に、これらのことを語るのは、わたしの喜びが彼らの内に満ちあふれるようになるためです。17:14 わたしは彼らに御言葉を伝えましたが、世は彼らを憎みました。わたしが世に属していないように、彼らも世に属していないからです。17:15 わたしがお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです。17:16 わたしが世に属していないように、彼らも世に属していないのです。17:17 真理によって、彼らを聖なる者としてください。あなたの御言葉は真理です。17:18 わたしを世にお遣わしになったように、わたしも彼らを世に遣わしました。17:19 彼らのために、わたしは自分自身をささげます。彼らも、真理によってささげられた者となるためです。