北海道の五月は新緑の季節です。また今は桜が満開です。でもなぜ、様々な木や草に綺麗な花が咲き、新しい芽吹きが起こるのでしょうか。それはそれらの花や蕾の枝が幹や根に繋がっているからです。そのように言いますと、そんなことは当たり前だ、何をバカなことを言っているんだ、と思われかも知れません。
しかしこの当たり前のこと、すなわち枝が木の幹に繋がることによって、綺麗な花が咲き、豊かな実りがあるという、ごく当たり前のことが、神と人との間で当たり前のことになっていません。そのことを主イエスはぶどうの木を用いて一つの譬えを語っています。ぶどう畑は、イスラエルのどの地方にでも見られる、ごく普通の風景です。その普通の風景をとらえて、主は次のように語られます。
《「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。 わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。》(1節~2節)。ここでは、まことのぶどう木は主イエスキリスト、農夫は父なる神、木につながっている枝は人間。そしてぶどうの実は信仰、と理解してよいでしょう。
さらに主イエスにつながっていている枝とは、主イエスの十字架の死によって、その罪が贖われたすべての罪人です。つまり主イエスを信じる者も信じない者も、すべての罪びとは、キリストの十字架という、まことのぶどうの幹に繋がっています。でもキリストの十字架に繋がっている枝も、信仰の実を結ばない枝は、農夫である父なる神が取り除きます。
しかし信仰の実を結ぶ枝は、さらに豊かな信仰の実を結ぶために、農夫である父なる神は手入れをされるのです。そして私たちが日々、豊かな信仰生活を送ることが出来るのは、父なる神の日々、新たな恵みの業によるのであることに気付かされます。さきほど、枝に実がなるのは枝が幹に繋がっているからであり、それは馬鹿げたほどに当たり前のことだと申し上げました。
でも枝が幹に繋がってさえいれば、後は放ったらかして置いても沢山の実が成るということではありません。それは農家の人たちによる、多くの苦労と丹精を込めた作業があって、初めて実を得ることが出来るのです。それと同じように私たちキリスト信仰者の信仰生活が豊かであるのは、父なる神による丹精の込めた深い愛の業があることを、忘れてはなりません。
しかし主イエスの譬え話は、これで終わっていません。主は言われます。《 わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。》(4節)。
そしてこの後の箇所でも、「つながっていなさい」「つながっていなさい」と、主イエスは繰り返し繰り返し、私たちに語り続けられます。しかも単につながっているのではなく、[私]につながっていなさいと言います。さてそこで、ここで言う私である主イエスキリストは、どのような方として、言い表されているのでしょうか。
それは、ぶどうの木、ではなく、まことのぶどうの木、なのです。そのまことのぶどうの木に繋がることによって、私たちはまことの信仰者という、まことのぶどうの枝になるのです。そのまことのぶどうの枝を、まことの農夫である父なる神が手入れをなさることによって、まことの枝にまことの信仰の実が豊かに実るのであります。
ですから、主イエスは繋がっていなさい、と言います。それは[繋がっているように]とか[繋がっていてください]というような、お勧めやお願いではありません。つながっていなさい、という強い命令形で語られています。そしてこの命令を発する主イエスご自身も、わたしもつながっている、という現在形で語っています。つまり主イエスは今もこれからも、私たちにつながり続けているのです。
そしてさらに《わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。》(6節)。つまり枝に実が成るのは枝が幹に繋がっているからであり、それは当たり前のことです。
でもその当たり前のことが、当たり前でなくなった。それが私たち人間の姿であり、罪びとの姿です。また私たちは、まことのぶどうの木に繋がるのであって、他の木ではありません。偽りのぶどう木に繋がってはなりません。さらに主は「私を離れては何も出来ない」とありますが、この何も出来ない、とはどういう意味なのでしょうか。
それは主イエスキリストを離れては、信仰の実を結ぶことが出来ないので、信仰の命のない枯れ枝になることを意味します。だから主イエスは私を離れはならない、あなたがたは、枯れてはならない、と強く命じられます。もし主イエスを離れたら、そこにあるのは、死の世界であり、罪の世界であり、命の失われた世界です。ですからこの命令は、主イエスキリストの悲しみの叫びかも知れません。
だからあなたがたは、枯れてはならない、父なる神の命から離れて、枯れてはならない、と言います。そして主は次のように語ります。《わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。》(6節)。と警告されます。私たちは、この警告の意味するところを重く受け止めなければなりません。
最後に、主イエスキリストは私たちキリスト信仰者に次ぎのように語りかけられます。「私につながっていなさい。あなた方は、枯れてはならない。なぜならあなた方は、一人のキリスト信仰者として、豊かに実を結ぶために、そのためにこそ、あなた方は召されたのであり、豊かに信仰の実を結ぶために、復活の主につながれているのである。枯れ枝として捨てられるようなことがあってはならない。」と主は言われるのであります。
アーメン
新約聖書 ヨハネによる福音書 15章1~10節
15:1 「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。15:2 わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。15:3 わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。15:4 わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。15:5 わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。15:6 わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。
15:7 あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。15:8 あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。15:9 父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。15:10 わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。