2006年5月21日日曜日
復活後第5主日 「私たちの友となられた」
ここ一ヶ月の間に、私たちの教会では二回の葬儀、洗礼式、結婚式、召天者一周年記念式と、大きな出来事がいくつもありました。そして洗礼式以外の集会では、必ず歌われた一つの讃美歌があります。それは〝教会讃美歌371番ーいつくしみ深き〟です。でもどうして、この讃美歌が歌われるのでしょうか。それはこの歌が、教会に関わりのない一般市民の方々にも広く知られているからです。
でも何故、一般市民はこの歌を知っているのでしょうか。それは信仰の先達たちが、伝道集会や日曜学校の子供たちにこの賛美歌を熱心に教えたからだろうと思います。しかしそこで素朴な疑問が生まれます。だとしたら、これ以外の歌でも良いではないかということです。なぜ、この歌なのでしょうか。それはこの歌のメロディだけでなく、その歌詞にあるのではないかと推測されます。
つまり、この歌にある、歌詞の意味するところを、信仰の先達たちが、多くの人々に伝えたかったのではないでしょうか。そしてその最も伝えたいことは、一行目の歌詞にあると思います。つまり「いつくしみ深き、友なるイエス」です。つまり主イエスキリストは、慈しみ深い神であり、私たちの友となられた、救い主であることに、大きな感動があったのです。
そもそも、神というものは、高いところに鎮座しているものなのに、主イエスキリストはそうではない。しかも、友となられた主は、私たちが主を友として選んだのではなく、主イエスが私たちを友として選んで下さったのです。そのことについて《わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。》(15節~16節)とある通りです。
そして友として選ばれた私たちは、単なる友ではなく、この世に出て行って日々の信仰生活を通して、信仰の実を結ぶことの出来る友です。それ程の高い信頼を主は私たちに置いて下さいます。ですから主イエスは、父なる神から聞いた神の奥義としての、キリストの福音をすべて聞かせるのである、と主イエスは語ります。
その神の奥義としてのキリストの福音は、互いに愛し合いなさい、という言葉に集約されます。それは《わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。》(12節)との言葉に表されています。ここでいう愛は、主にある信頼を高く保つという信仰的な愛を意味します。そして、これは守らねばならない掟だ、と主は言われます。
さてここまで聞きますと、私たちはこの主イエスの信頼に答えるべく頑張ろうという気合いが高まってきます。けれども次の言葉を聴いた途端、私たちは愕然とします。つまり《友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。》(12節~13節)とあるからです。
でもこのとき私たちは、信仰の友のために自分の命を捨てることが出来ないという現実の前に立たされ愕然とします。けれども私たちは、あの讃美歌371番の第二番の歌詞を思い起こします。つまり「いつくしみ深き、友なるイエスは、われらの弱きを、知りてあわれむ。」とあります。さらに第一番の歌詞には「いつくしみ深き、友なるイエスは、罪とが憂いを、とり去りたもう」と書かれています。
つまり、私たちの友となられた、主イエスキリストは、私たちの信仰が弱いものであり、決して完全なものではないことを知っておられます。だから、あなた方が友のために命を捨てることができなくても、私はあなたの友であると、主は慰め憐れんで下さいます。さらに慈しみ深き友なるイエスは、私たちの罪、私たちのとが、私たちの憂いを取り去ってくださるのであります。
そして主イエスが13節で言う、友のために命を捨てるということの本当の意味は、私たちに、あなたの友のために命を捨てなさいと言っているのではなく、そうではなくあなた方には出来ないが、私が私の友である、あなた方の罪・とが・憂い・弱さのために、十字架に架かって自分の命を捨てるのであると、主イエスキリストは言われるのです。
つまり主イエスは、私たちの友となられた、のと同時に、友として最も大きな愛を実行するために、私は十字架のうえで友であるあなた方のために命を捨てるのであると、語っておられます。つまり友のために命を捨てるのは、我々ではなく、主イエスが私たちのために命を捨てるのであります。ですから私たちが友のために命を捨てなくても、主イエスは、私たちの友であることを止めようとはされません。
しか私たちには、一つ気になることがあります。それは14節で「私の命じたこと」が、友のために命を捨てることでないとしたら、主は私たちに命じたこととは何でしょうか。その答えは17節にあります。《互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。》というのがその答えです。
さらに主にある信仰的な愛について、あの371番の讃美歌の第三番で、「いつくしみ深き、友なるイエスは、かわらぬ愛もて、導きたもう。世の友われらを、捨て去るときも、祈りにこたえてて、いたわりたまわん」と歌います。つまり、私たちの友となられた、主イエスキリストは、いつもいつまでも、変わらぬ愛をもって私たちを導いてくださいます。
つまり信仰のゆえに、私たちがこの世の友人たちから見捨てられることがあっても、主イエスキリストは決して私たちキリスト信仰者を見捨てることはありません。だから、もし私たちの信仰の兄弟姉妹が、その信仰のゆえに、この世の友人たちや知人たちから見捨てられることがあっても、信仰の友である私たちは、その信仰の兄弟姉妹を見捨てないという、主にある愛を保つことが命じられています。
つまり、私たちキリスト信仰者は互いに主にある信頼を高く保つつ信仰の兄弟姉妹とともに歩むこと、これが私たちの友となられた、主イエスキリストが私たちに命じられた掟なのであります。
アーメン
新約聖書 ヨハネによる福音書 15章11~17節
15:11 これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。15:12 わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。15:13 友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。15:14 わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。15:15 もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。15:16 あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。15:17 互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」