主イエスキリストが処刑されるときに使われた十字架という道具は、現在はキリスト教会の存在とその信仰を表すシンボルマークになっています。しかし主イエスが処刑された時代では、十字架の処刑は最も非人間的で残虐な方法だったそうです。その十字架が、なぜキリスト教会のシンボルマークになったのか。それには様々な歴史的な背景があったと考えられます。
またこの十字架に、信仰的な意味付けを考えた人たちもいたようです。つまり、十字架は何故、縦の棒と横の棒が交わるような形になっているのか。それは縦の棒は神と人との交わりを示し、横の棒は人と人の交わりを表している。そして縦と横の線が交わるところに神の救い主イエスキリストがおられる、というわけです。
つまり神と人との交わり、人と人の交わりは、主イエスキリストによって実現することを表わしているのが十字架であるというわけです。これを単なるこじつけと言ってしまえばそれまでですが、でもこの理解は、私たちキリスト信仰者の信仰の告白を適切に言い表していると言えます。すなわち神と人・人と人の真の交わりは、主キリストの十字架による罪の贖いによって実現するのであります。
旧約の時代において、神と人・人と人の交わりや関わりは、律法によって秩序立てられていました。しかし主イエスが福音という神の新しい喜びの御言葉を携えて来られることによって、神の戒律による交わりではなく、神と人がそして人と人が神の愛とキリストの恵みによって、交わりを持つことが出来るようになりました。それは神と人との全く新しい交わりの始まりです。
さてそこで神と人との新しい交わりを表す十字架と、十字架を形作る縦の棒と横の棒はそれぞれ、どんな意味があるのか学んで見たいと思います。そしてこの学びの切っ掛けを与えてくれたのが、ある律法学者の質問です。《彼らの議論を聞いていた一人の律法学者が進み出、イエスが立派にお答えになったのを見て、尋ねた。「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」》(28節)。
彼は律法の指導者として真剣に聞いているようです。この時代、律法は613項目に分かれていました。このうち、248項目は、~~しなければならない、という肯定的な表現がされています。あとの365項目は~~してはならない、という否定的な表現がされています。そして彼は、この613項目、全部に対して忠実であろうといているようです。
しかし律法を指導する立場としては、律法全体を支える中心的な律法が何であるのかは、是非、知りたいところです。その質問にに対して《 イエスはお答えになった。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」》(29節~31節)と教えられました。
ここで揚げた第一の掟は、申命記6章4節~5節であり、第二の掟はレビ記19章18節にある御言葉です。でも彼は、どれが第一か、と聞いていますので、申命記の御言葉だけでよかったはずです。しかし主イエスは、最も大切な掟は二つあると言います。つまりすべての信仰者は[神を愛し、そして隣人を愛する]のです。しかもこの二つの掟の一番目と二番目を入れ替えてはなりません。
また同時に、この二つを切り離してはなりません。つまり神を愛することと人を愛することは、常に一つの掟であると主イエスは教えられます。ですからもし私たちキリスト信仰者が、「私は神を愛するが、隣人は愛さない」と言うなら、それはキリストの福音にも反することなのであります。そしてこの主イエスの教えには、はっきりとした根拠があります。
それは神の律法の中心である、モーゼの十戒のうち第一の戒めから第四の戒めは、私たちが神を愛するための戒めです。そして第五の戒めから第十の戒めは、私たちが人を愛するための戒めです。そして父なる神はこの十の戒めはすべて守るように命じておられます。ですから、もし私たちが人を愛さないなら、モーゼの十戒のうち、第五から第十の戒めを否定することになります。
ですから私たちはモーゼの十戒をすべて守り、主なる神と真の交わりをもち、隣人と真の交わりを持ちたいと思います。しかしここで、あることに気付かされます。つまり、自分は本当に神と人を愛する真の交わりを持つことが出来るだろうか、という疑問が起こります。私たちは様々な罪の思いによって、完全に守ることが出来ていないという現実に気付かされのであります。
でも私たちは罪のゆえに出来なくても、神と人との真の交わりを私たち罪びとたちに回復して下さる方がおられます。本日の説教の冒頭で、十字架の縦の線は神と人の真の交わりを表し、横の線は人と人の真の交わりを表し、その中心に主キリストがおられると言いました。そして神と人の交わりとは、神と私の交わりであり、人と人の交わりは、隣人と私の交わりです。
でも私たちは罪の思いによって、真の交わりが出来ません。しかし主イエスは、そのような交わりが実現できるように、神と交渉して下さいます。隣人と真の交わりが実現できるように、私の隣人と交渉してくださいます。主イエスキリストは、真の交わりの交渉人、なのです。主御自身が、私たちの罪を贖うために十字架に架かられることによって、私たちが神と隣人との真の交わりが回復されるように交渉してくださるのであります。
そして主イエスが、真の交わりの交渉人、であり、そして神を愛することと、隣人を愛することは、主キリストによって一つの出来事となることを、あの律法学者も理解できました。《 律法学者はイエスに言った。「先生、おっしゃるとおりです。『神は唯一である。ほかに神はない』とおっしゃったのは、本当です。そして、『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する』ということは、どんな焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優れています。」イエスは律法学者が適切な答えをしたのを見て、「あなたは、神の国から遠くない」と言われた。》(32節~34節)。
しかし主イエスは、ここで不思議なことを語っています。つまり彼にむかって、神の国から遠くない、と語っています。普通なら、あなたの信仰があなたを救った、と言うように思います。なぜでしょうか。それは彼は理論的には理解したのですが、彼は主イエスを神の救い主であり、神から遣わされた、真の交わりの交渉人、であることを信仰によって理解していなかったのです。
しかし私たちには、主キリストが真の交わりを回復してくださる交渉人であることを信仰によって理解しています。そして神と隣人の真の交わりは主イエスキリストによって作られるという信仰を、さらに保ち続けていきたいと思うのであります。
アーメン
新約聖書 マルコによる福音書 12章28~34節
12:28 彼らの議論を聞いていた一人の律法学者が進み出、イエスが立派にお答えになったのを見て、尋ねた。「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」12:29 イエスはお答えになった。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。12:30 心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』12:31 第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」12:32 律法学者はイエスに言った。「先生、おっしゃるとおりです。『神は唯一である。ほかに神はない』とおっしゃったのは、本当です。12:33 そして、『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する』ということは、どんな焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優れています。」12:34 イエスは律法学者が適切な答えをしたのを見て、「あなたは、神の国から遠くない」と言われた。もはや、あえて質問する者はなかった。
